岩坂彰の部屋

第29回 翻訳作業の内訳

定量的にもの考えることはとても大切です。定量的、なんていう言い方にひっかかっちゃう読者もいるでしょうけれど[注1]、要するにものごとの具体的な大きさ(量)を考えに入れるということです。たとえば「インフルエンザが流行し始めた」ではなくて「1つの医療機関を受診したインフルエンザ患者数の平均が週に30人を越えた」というのが定量的な見方ということになります(ちょっと簡略化してますけど、実際これがインフルエンザ警報の発令基準です)。

ともかく、「インフルエンザが流行し始めました」というニュースを聞くのと、「いつも行っているあの医院で毎日5人くらいインフルエンザの人が来てるんだな」と思うのでは、帰宅したときの手洗いとうがいの頑張り方にも違いが出るというものです。

「○○は△△だ」という「定性的」な話を耳にすると、定量的にはどうなんだろうかと、つい考えてしまいます。たとえば「女性は地図が読めない」[注2]→地図が読める女性、地図が読めない男性はどのくらいの割合でいるのかな。「長野県人は理屈っぽい」[注3]→長野出身の私はよく言われるんです。たしかに私が理屈っぽいのは認めましょう。でもたぶん、長野県人の中でも私は理屈っぽい方。〈理屈っぽさ度〉の全国分布が分かったら知りたいなあ。「昔は義理チョコなんてなかった」[注4]→昔って、10年前? 30年前? 50年前?

じゃあ、「ノンフィクション翻訳は調べ物が多い」という定性的な命題はどうなんでしょう。というわけで、現在翻訳中の精神医学専門書の一部を使って、時間とテキスト分量をメモりながら、ちょっと作業してみました。結果はご覧のとおりです。サンプル1つだけなので細かい数字にあまり意味はありませんが、ふだんの様子からしてもだいたいこんな感じかな、というところです。

 1ページ読むのに15分て、あいかわらず読むのが遅いですねえ。

「その他ウェブ調査」の内容ですが、長時間調べていたのは、統計的な話の中に出てくる「0.5 SD」という表現についてです。SDは標準偏差で、「標準偏差の半分」という意味なんですが、この本のレベルでは表現をどう処理するのが適当かという点で悩んでいました。というか、それ以前に「2つの分布の差が標準偏差(の1倍)程度(on the order of an SD)」というのは小さな差なのか、というような基礎的統計感覚が欠けているので、そのあたりの情報を仕入れる必要があったのです。ウェブで関連サイトを20ページほど閲覧しました。

その他、人名のカタカナ表記(研究者名なので、邦訳書があるかどうか、ない場合は、どこの国の人か)も「ウェブ調査」に含まれます。

 「語句意味調べ」9分のうち5分は、訳文には直接関係しない件で使いました。途中で出てきたantecedentという語がprecedentとどう違うんだろうとふと気になって、あれこれ調べたものです。こういうことって、よくあります。

「表現調査」というのは、たとえばdysfunctionalを機能不全的とするか非機能的とするかを、他の本との統一という観点から確認し直すといった作業や、一般的な語句についてもっと適切な表現はないかなあとGoogleでフレーズ検索してみたり、類語サイト[注5]を検索したりといったことです。そういうことは、「日本語化」の時間の中でもちょこちょこしてはいるんですが。

「編集作業」というのは、参照文献の処理や、索引に含めるべき用語の確認とマーキングです。

上のグラフのテキスト分量というのは、日本語3文字で英語1ワード程度という大雑把な換算をして比較したものです。辞書については、1つ単語を調べると、用例を含めて20ワード分くらい見るかな、という程度の話ですが、原文の2~3倍は参考資料を見てるよな、というふだんの感覚は裏づけられます。

確認すべきテーマは、「ノンフィクション翻訳は調べ物が多い」でしたが、この数字をフィクションの翻訳と比べてみないと答えは出ませんね。小説だって調べることはたくさんあるはず。フィクションの翻訳家の方、いかがでしょう。ノンフィクションの本にもわりとフィクション的な部分が含まれていることがあって、そういうところでは、私の辞書引きの頻度が一気に上がります。細かいニュアンスを知りたくてネイティブに質問したりする時間を入れると、このグラフもだいぶん変わってくることでしょうね。

それに、とくに「調べ物」と意識しなくても、これまで読んできた精神医学や脳科学の本は間接的な参考資料になっています。そういう基礎知識がなければ、翻訳に際しても調べ物は一気に増えるわけです(今回の統計的知識もそうでした)。内容になじみがない分野の金融系記事や科学記事では、原文が数百ワードでも、その2、3倍どころか10倍以上の資料を読まなければいけないことがあります。これまた感覚的な話ですけど、上の円グラフで「調査」部分が50%以上になってしまうようだと、それは「得意分野」とは言えないでしょうね。逆に、翻訳者の「分野」は、こういう数字で定義できるのかもしれません。

みなさんも、翻訳中に実際何をどのくらいしているのか、いちど定量的に確認してみたらいかがでしょうか。量的にものをイメージするくせをつけておくと、現実的効用として、原文から単位の変換をしたときに、計算だけにたよって、「キッチンの広さが200平方メートル」なんて妙な間違いをしなくてすむようになりますよ。

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