特別寄稿

『リタ』①

ヨハンナ・シュピリ著
たかおまゆみ訳

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ヨハンナ・シュピリは『アルプスの少女ハイジ』の著者としてよく知られるスイスの作家ですが、スイスを舞台とした作品は他にもたくさんあります。 ドイツ語翻訳者・通訳者のたかおまゆみさんは、「ハイジ」以外のシュピリ作品を スイス滞在中に収集し、『WEBマガジン出版翻訳』(現在は休刊中)などでも新訳を発表しています。今回は『リタ』を、4 回に分けてご紹介します。くるくるカールした巻き毛がかわいい少女「リタ」とアルプスの少年「セプリ」の物語を、美しいスイスの景色とともにお楽しみください。

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旅立ちの前

 エルベ川の岸からそう遠くないドレスデンの町に、大きな石造りの家がありました。気持ちよい七月の朝です。フェランド氏はひじかけいすに腰かけて、新聞を広げていました。
 向かい側ではフェランド夫人が、さかんに湯気をたてているやかんを手に、香りのよいコーヒーをいれていました。まもなく朝ごはんの時間です。
 そこへ、ふたりの小さな女の子が入ってきました。ひとりはぴょんぴょん飛びはねながら、もうひとりはものしずかに。パパのひざめがけて飛びはねたリタを、ハラハラしながら見ている若い女の人――ホールベックさん――の姿もありました。
 リタは、くるくるカールした頭を新聞の下にもぐりこませながら、こう言いました。
「ねえ、パパ! わたしたち、いつゲミに行くの?」
 フェランド氏は新聞をよけると、娘をだきあげて言いました。
「まず、おはようだよ。ねえ、小さなバッタちゃん。それから休暇の話だ」
 リタはパパにぎゅっとだきつくと、心をこめて、おはようのあいさつをしました。姉のエラはそのかたわらで、パパにおはようを言う順番をおとなしく待っていました。
「その話は、おまえが自分のいすにかけてからにしようじゃないか」フェランド氏が、リタに言いました。
「わかったわ、パパ」と答えながらも、リタは居心地のいい場所から離れようとしません。
「パパが、いつゲミに行くか言ってくれるまで、おひざで待ってるだけなんだけどな」
「ああ、ママが荷物をつめたらね」フェランド氏がうっかり受け答えをしてしまうと、リタはそこらへんを飛びまわりはじめました。
「ねえ、ママ! 今日、ぜったい荷物をつめましょうよ。ねえ、おねがい、おねがい! すぐよ、すぐ! わたし手伝うわ。エラも手伝えるし、ホールベックさんだって。そうすればわたしたち明日の朝早く出発できるでしょ。そして……」
「さあさあ、まずミルクを飲んで。おりこうさんだから」
 母親がエラのおしゃべりをとめて、ようやく朝ごはんとなったのでした。

 もう長いこと、フェランド氏の家の朝は、ゲミ行きについての質問から始まっていました。小さなリタの頭の中は、ゲミのことでいっぱいなのです。
 去年の夏、リタの両親はスイス旅行に出かけました。ふたりは、ヴァリス州からベルン州に通じるゲミ峠を、ことのほか気に入りました。そして、次の夏、つまりこの夏ですが、子どもたちとホールベックさんと一緒に再びここを訪れ、しばらく滞在することに決めたのでした。
 両親は旅行のおり、ゲミの道案内人、カスパーと知り合いになり、次の夏の計画についておおよその考えを告げました。するとカスパーは、ゲミ峠からそう遠くない草原に建つ、自分の小さな家に住んだらどうか、と申し出てくれたのでした。
 カスパーはお客様を案内して夏じゅう出はらっているし、二人の息子もこれまた夏の間じゅう、アルプスの小屋に寝泊まりして、動物たちの世話をするのです。ですから、大きな居間とふたつの寝室を、フェランド一家は自由に使えることでしょう。カスパーのおくさんが屋根裏に住み、一家の給仕をすることもできます。
 この申し出は、フェランド夫妻を大変喜ばせました。子どもたちにとっても、高い山、緑のアルプス、アルプスで草をはむたくさんの牛がいる風景などは、格別なものに思えました。ですからリタは、出発の日を待ちきれないでいるのでした。リタときたら冬の間から、「ママ、いつ夏になるの?」と毎朝、毎夕たずねていたのでした。

 今やっと本当の夏がきて、リタの質問はさらに熱を帯びてきました。毎朝、「いつ、わたしたちゲミに行くの?」とたたみかけるのでした。待ちきれなくて待ちきれなくて、質問とお願いのあらしになりました。高い山に緑の野原! どうしてこれ以上待っていられましょう。

 ついにその日になりました。家中ごったがえして、まるで「歳の市」のようです。ありったけの服が部屋に散らばり、足のふみ場もありません。でも、しだいにそれらの荷物が、三つのとてつもなく大きなトランクの中に消えてゆき、二日後、フェランド一家は車中の人となりました。エラはママとホールベックさんの間にすわってにこにこし、リタはうっとりしたようすでパパに抱きついていました。とうとうゲミに出発するのです!

ゲミ峠

 その小道は、ゲミ峠をのぼりきった地点からそう遠くないところで、雑木林の中に入って行き、山歩きをする人々が険しい岩肌を越えて深い断崖絶壁を見下ろす場所に通じていました。
 美しい夏の夕方、その道をこちらへ、ひとりの小さな少年がやってきました。雑木林で見つけたらしい大きな赤い花を手にしています。
 少年はあたりを見回すとさらに先に進み、左手に傾斜をもって広がるなだらかな草原につけられた道を行きました。先のほうには家が二けん、ほど近い距離に建っていて、それぞれの家には家畜小屋がありました。
 かたほうの家――道案内人カスパーの家なのですが――は少し大きくて、ドアや窓が新しく、手いれもゆきとどいて、こざっぱりと見えました。夏じゅうたくさん働いて得たお金で毎年少しずつ改築され、家畜小屋には、近所の人たちのようにヤギ二匹だけではなく、ミルクとバターが取れるすてきな牛もいました。
 その向こう側、くさりかけた入り口とボロボロ屋根の小さな家には、かつぎ屋のマルティンが、四人の小さな子どもたちもいっしょに住んでいました。家畜小屋にはヤギが二匹いるだけ。毎朝しぼるミルクは、家族みんなが飲むには足りません。
 がんじょうなマルティンは、さえわたる青空のもと、夏じゅうゲミ峠で旅行者たちの荷物を背負って働いていました。でも、隣のカスパーが何日も出っぱなしで稼ぐほどには、お金をもらえないのでした。

「セプリ、来てよ。見て、見て!」
 セプリとよばれた、さっき森の道を帰ってきた子は、よばれるままにカスパーのふたりの息子たちのもとにかけよりました。そして、ふたりが手にしているものを目にし、ハッとしました。
「見て!これお父さんがベルンの歳の市で買ってきてくれたんだよ」兄のケピが、手にしたものをかざしながら言いました。
 ケピとユルグが手にしていたのは、「鞭」でした。よくしなっているその持ち手には赤い皮バンドが巻いてあり、長いひもは固い白い皮で編んでありました。すばらしいのは先っぽでした。ぎゅっと編まれた黄色の絹ひもが、小さな房になってついていました。この「ツヴィック」の部分が、パチッと音を鳴らすのにとても効くのでした。
 セプリはほれぼれとして鞭を見つめました。こんなにすてきなものを、今までに目にしたことがあったでしょうか!
「そーら、聞いてみてよ」ケピは言うなり、鞭をふりおろしました。弟のユルグも同じように鞭をふりはじめました。パシッ、メリッという音が谷のあちこちにひびきわたり、それが山々にこだまして再び戻ってきました。セプリにとって、この世界にこんなにすごくて、すばらしい音はないように思われました。
「ぼくもほしいなあ、そんな黄色のツヴィックのついた鞭……」
 二つの鞭の音がようやく鳴り止んだとき、セプリは深くため息をついて言いました。
「そうだね。待ってれば、そのうち買ってもらえるんじゃない?」
 ケピは鼻にもかけないでそう答えると、もう一回最後にピシャッとやって、行ってしまいました。鞭を他の子にも見せようというわけです。ユルグもケピの後を追いました。セプリはふたりのうしろ姿をぼうっと見送りながら、小さな心が鉛のようになって、そこを動けませんでした。
 願ってもかなえられないものがあるということを、セプリは子ども心にぼんやりとわかっていました。ケピは皮肉にも言いました。「待ってれば、買ってもらえるよ!」と。この言葉は、セプリにとって絶望以外の何ものでもありませんでした。手にしていた赤い花をへしおり、投げ捨てました。自分が手にすることができるのはこんな赤い花だけで、黄色のツヴィックのついた鞭なんてむりだ、絶対できっこない。そんな気がして花を捨てたのでした。
 いったいどのくらい長く、そこに立っていたことでしょう。うしろの戸口が開き、ほうきを手にした女の人が外に出てきました。ケピとユルグの母親でした。
「うちの子たちはどこ?」
「鞭を持って行っちゃったよ。鞭だよ」とセプリは答えました。セプリの頭の中は鞭のことばかりでした。
「追っかけて行って、家によび戻して。絶対だよ!」ケピとユルグの母親の声は、せっぱつまっていました。「明日の朝早く、あの子たちはアルプスに上がって行かなきゃならないんだよ。そして、夕方にはお客さんたちが来る。ところが、まだすまさなくちゃいけないことがどっさりあるの。さあ、そう言ってきて。走るんだよ!」

 今朝方、フェランド氏から「家族とともに翌日の夕方着く」という手紙が届き、それからほうきや、ふだんは使わないようなものまでひっぱり出しての大そうじと準備が始まったのでした。
 ようやくふたりが鞭の音をさせて帰ってきました。セプリがその後ろにくっついています。鞭からひとときたりとも目をはなしたくないからでした。母親がケピとユルグを中へよび入れると、やっとセプリは向きを変え、向こうに見える小さな家へとぼとぼと歩いて帰って行きました。頭の中は、黄色のツヴィックのついた鞭のことばかり。耳には、「待ってれば、君だって買ってもらえるよ」と言ったケピの言葉がうずまいていました。
 家の前では、父親のマルティンがまきわりをしていました。マルティェリィ、フリードリ、ベーテリもいっしょでした。セプリの妹と弟たちです。
 マルティンが、その大きながっしりとした体格には似つかわしくない、優しい声で言いました。
「セプリ、たのむよ。まきをお母さんのところに持って行ってくれ。ジャガイモを料理してくれるはずだから」
 セプリは、すぐにまきを台所へ持って行きました。それから、ばたばたとしてすごす間だけ、鞭のことを忘れていました。
 けれど、フリードリとふたりでせまいベッドに横になると、鞭が目の前にちらついてねむることができませんでした。あーあ、ぼくも黄色のツヴィックのついた鞭がほしい……。

知り合いになる

 翌朝早くから、鞭の音がひびきわたりました。四時です。ケピとユルグは家の前で、アルプスに連れていく牛たちが集まるのを待っていました。ふたりは秋まで牛飼少年として、アルプスにとどまることになっていました。家にいても、おとなしく遊べと言われるだけです。山の上で、鞭を片手に牛たちとあちこち走り回っていられるということは、ふたりにとってなによりなのでした。
 母親はふたりに小さなかごをせおわせ、もう一度あれこれと注意をしました。牛たちもおとなしく聞いていました。
 そうやってふたりを出すと、母親はきびすをかえして部屋にもどり、上から下までいつ果てるともしれないはきそうじとふきそうじをはじめました。
 最後に窓わくをみがきあげながら外に目をやると、モミの木の後ろに陽がかたむきはじめていました。朱色の夕陽をあびて、窓、机、壁ぞいのこしかけベンチ、床、すべてのものが輝いていました。そして、谷からの道には、背負い人、馬、ぎょしゃからなる一隊の行列がのぼって来るのも見えました。
 ああ、いよいよです。あわてて階段をかけあがり、新しいエプロンをひっつかむと身なりをととのえ、客人をむかえるために木戸まで出ました。
 馬が木戸までつけて止まると、先におりたフェランド氏が、妻をだきあげるようにしておろしました。ホールベックさん、子どもたちもぎょしゃにかかえられて、馬からおりました。
 さあ、リタときたら! もう走りまわっています。ゲミで一番きれいなものを、すぐにも探そうと気がはやっていました。入り口に小さいイスのおかれた家、そのまわりを取り囲む緑の草原と花々、小川のせせらぎ、岩肌に光り輝くばかりの夕焼けとモミの木……、すべてが新しくすべてが美しく、どれが一番なんてわかりませんでした。
「見て、見て! ほら、この部屋いっぱい壁にそって丸く座れるわ。それにあの階段。どこにあがっていけるのかしら」
 言うがはやいか、リタはだんろの後ろがわの階段をあがっていました。階段は小さな寝室に、さらには、大きな寝室と小部屋へとつながり、もうひとつの木の階段が再び下の居間へと通じていました。一日のうち何回もくるくる回れるすてきな円周路でした。
「とうとうゲミにいるんだわ!」リタの興奮はいつ冷めるともしれませんでした。

(つづく)

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