特別寄稿

『リタ』③

ヨハンナ・シュピリ著
たかおまゆみ訳


   おそろしい夜が明けました。太陽が山の向こうがわ高くに上り、大きな喜びを告げるかのように、森や草原の上を照らしていました。
 フェランド夫人は、とうとう疲れはてて眠りに落ちていました。静かな眠りが、ほんのしばしの間、苦痛に満ちた恐ろしい予感から夫人を解き放っていました。夫人は夫が戻ったことにすぐ気づくと、「あの子を連れてきて下さった?」と二階からさけびました。
 フェランド氏は疲れた足取りで階段をのぼり、妻のベッドのかたわらに腰を下ろすと、頭を抱えて言いました。
「一人で戻ってきたよ。もう打つ手がない……」
「そんな……!」
「あんな小さな子が、夜の間どうしていたことやら……。もう死んでしまったか、それとも死にかけているのかもしれない」
「そんなのいやよ、パパ!」いつの間にかそばに来ていたエラの声がひびきました。
「神様はきっとリタを守ってくださっているわ。わたし、ママといっしょに何度も何度もお祈りしていたのよ」
 フェランド氏は言いました。
「森のありとあらゆる所を歩きまわったよ。でもあの子はいなかった。今から川の方に下りていってみるつもりだ」
 そしてふるえる声で、あの子はすごい流れの川に落ちたかもしれない、だんだんそう思えてきたとつけくわえました。
 まもなく階下にもどったフェランド氏は、男の人たちにおいしい朝ごはんを用意し、食事が終わったらみんなでふたたびさがすようマルティンに言いつけました。すでに明るくなって、峡谷のほうへも行きやすくなっていました。

 フェランド氏がマルティンの家へ行くと、男たちはまだ食事のさいちゅうで、これから何ができるだろうかと相談していました。セプリも父親のとなりでじっと耳をかたむけています。フェランド氏がマルティンのとなりに腰を下ろすと、その顔にうかぶ苦悩に、一瞬にして部屋は静まりかえりました。
 そのとき突然、セプリの幼い声がしました。
「ぼくわかるよ。その子がどこにいるか」
「いいかげんなことを言うもんじゃないよ」
 やわらかな声で、マルティンは息子に言い聞かせました。
「お前は干し草のところにいただろう。リタさんがどうしていなくなったのか、わかりっこないじゃないか」
 フェランド氏が、なわなど必要な救助用具について男たちに聞いている間も、セプリはぶつぶつと「ぼく、どこにいるか知ってるよ。絶対だよ」と言っていました。
 立ち上がったフェランド氏は、少年の手を取って優しく言いました。
「ねえ君。わたしを見てごらん。そして本当のことを言ってみてごらん。何かあの子のことについて知ってるのかね?」
「うん」
「それじゃ話してごらん。ぼうや。あの子を見たというのかね? どこにあの子は行ったんだい?」
 次第に興奮しながら、フェランド氏はたずね続けました。
「教えてあげるよ」セプリはそう言うと、ドアの方に行きました。
 みんなは立ちあがり、互いに顔を見合わせました。子どもの言うことにどれほどの信ぴょう性があるのか、だれにもわかりませんでした。しかし、フェランド氏はためらうことなく、セプリの後について行きました。
 マルティンが、息子にさとすように言いました。
「わしはお前の言うことを信用できないんだが……」
 しかしセプリは、かまわずどんどん先に行きました。フェランド氏が続き、男たちもためらいながらついて行きました。
 セプリが雑木林に向かった時、みんなは、思わず立ち止まりました。
「こりゃだめだ。あっちは、わしらがさんざん探したあげく、何も見つけられなかったじゃないか」とくちぐちに言い始めました。セプリはそんなこと気にもせずに、どんどん進んで行きました。フェランド氏もその後に続きます。しかたありません。マルティンと男たちは、セプリの後についていくことに決めました。
 そのうち、セプリが自信ありげに木の多い方へわけ行っていきました。古いモミの木の方に、赤いものがちらちら見え隠れしています。その木を左に曲がり、やぶやアザミのしげみをふみつつ行くと、赤い花が群れてさいているのが見えてきました。一行は、見なれない光景にぼうぜんとして、あたりを見回しました。セプリはここでリタを見つけるつもりのようでした。けれど見当たらなかったので、もっと奥へと進んで行きました。
 花の数はだんだん少なくなりましたが、ひとまわり大きな花がさいているのが見えてきました。セプリは、花のあるところで立ち止まっては周りを見回し、左へ左へと進んで行きました。

「だめだ、セプリ! これ以上はむりだ。もうすぐ大きな岩壁に行きあたる」と、マルティンがさけびました。ちょうどその瞬間、しげみの中が炎のように光りました。赤い花でおおわれたかん木の上を、太陽が燃えるように照らしたのです。
 セプリは父親の言葉に耳も貸さずに走って行きましたが、その行く手には、切り立ったけわしい断崖絶壁に通じている、厚い岩壁が立ちはだかっていたのです。
 セプリはどんづまりで身をかがめると、花ごしに下の方を見つめました。そして後ずさりしました。セプリの背後で絶望をあらわにしていたのは、フェランド氏でした。道は行き止まり、リタの姿はないのです! いっぽう、マルティンは、すんでの場所から息子を引きもどそうとしました。そのとき、セプリがかわいた声で言いました。
「あっ、あそこっ! あの子が寝てる!」――フェランド氏の顔から、みるまに血の気が引きました。ひざをがくがくふるわせ、数歩引き返すと、そこにあった木にしっかとつかまらなければ立っていられませんでした。フェランド氏の視界にも、娘の姿が入ったのです。
 セプリの手をしっかりにぎったまま、マルティンもふちの方へ身をのりだしました。絶壁にはそこここに少しずつしげみがかかっていて、目で見えるところに、突き出したせまい岩だながありました。その岩にしなだれかかって石に顔をふせている小さな子どもは――確かにリタでした。
「本当だ、リタさんだ……!」マルティンはふるえながら言いました。「でも生きているのか、それとも――」
 フェランド氏は、真っ青な顔をしながらも声をふりしぼりました。
「マルティン、緊急事態だ。あの子は生きるか死ぬかで絶壁のところに横たわっている。だれか下りて行けるだろうか? だれかあの子を救えるだろうか?」
 そこへ他の男たちもぞろぞろやってきました。みんな、少女が助かる望みはないと思いながらも、どうなることかと後を追ってきていたのでした。おっかなびっくり、かわるがわる岩壁から下の方をのぞきこみました。
「聞いてくれ、みんな」フェランド氏が、せっぱつまった声で言いました。
「一刻もゆうよがない。だれかあの子を助けて運んでくれるものはいないかね」
 男たちは互いに顔を見合わせ、みんなだまってしまいました。ある者はふちから再び乗り出して下をのぞきこみ、引き返してきて肩をすくめ、そして行ってしまいました。
 別の男が言いました。
「まだ生きていることが確実にわかったらねぇ…」
 他の男が言いました。
「こちとら自分の命も大事だし、ひょっとして死んだ者を背負いに行くだけになっちまうかもしれねえ」
「もうあの子が生きていないかもしれないなんてだれにわかると言うのだね!」フェラ ンド氏は、我を忘れてさけびました。
「もしあの子が動いたらいっかんの終わりだ! 今すぐ助けなければ! そうじゃないのか!?」
「もう死んでるんじゃないですかねえ。そうでなけりゃ、あんなにじっとしていられませんぜ」だれかが、また言いました。
「だんなさん、どんなにすごいほうしゅうも、こりゃ何の役にも立ちゃしませんよ」別の男は肩をすくめながら引っこんでいきました。
 フェランド氏は、すがるように周りを見わたしましたが、これ以上は望めそうもありませんでした。

「よし、わたしが自分で行こう。どうやったらいいか教えてくれ」フェランド氏が、我を忘れてさけびました。
 その時、マルティンが進み出ました。
「そんなことをしたら、死んでしまいますよ。わしが、天の神様におすがりしてやってみやしょう。わしにも小さい子がおります。今、だんなさんがどんな気持ちでおられるか、ようくわかりまさあ」
 そう言い終わらぬうちに、マルティンは、大きな縄を古いモミの木の幹にしっかりしばり付けていました。
 マルティンは心に決めていました。その子が死んでいようと生きていようと関係ない、とにかく父親のもとに連れ戻そうと。

   ぼうしを脱いで、静かに祈ったマルティンは、縄をしっかりにぎりしめ、岩壁を下に伝い始めました。そうやってせまい岩だなにたどり着くと、左手で満身の力をこめて縄をにぎり、両方の素足で崖につっぱって、上に向かって数歩上ってみました。右手でリタをだきかかえられるように、というわけです。マルティンを見て驚いた表情を見せました。――― その子はじっとして動きませんでした。マルティンは身をかがめ、大きなたくましい手を子どもの上におきました。その瞬間です。その子は急いで寝返ろうとしました。ひょっとして転がり落ちてしまったかもしれませんでしたが、マルティンの手は力強くそれを押さえていました。その子は頭を上げ、大きな驚いた目で彼を見つめました。

(つづく)

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