特別寄稿

『リタ』④

ヨハンナ・シュピリ著
たかおまゆみ訳


「ああ、よかった!」マルティンはそう言うと、深く息をつきました。
「そう言ってみるかい、おじょうさん。もしまだおしゃべりできれば!」
「ええ、わたしまだお話できるわ。ああ、よかった!」その子は、とても元気そうな声で言いました。
 マルティンはかすり傷ひとつないその子を見て、心底驚きました。
「お嬢さんは、主なる神様のとりわけ愛すべき者にちがいない。神様はお嬢さんに奇跡をおこしなさった。このことを生きている限り決して忘れちゃいけないよ。おりこうさん」そう言うと、たくましい右うでで、その子を自分の方に引き寄せました。
「いいかい、おりこうさん。両方の手でわしの首のところにしっかりつかまるんだよ。そう、絶対しっかりと。わしのことを、大好きなパパだと思って。わかるかい? 何と言ったって、わしはお嬢さんをだっこできないんだよ。上まで登るために、わしの両手は他にやらなくちゃいけないことがあるからね」
「うん、うん、わたししっかりつかまるわ」リタは約束すると、マルティンがほとんど息ができないくらいしっかりしがみつきました。マルティンは、そのことがとてもうれしかったのです!
 それから彼は、岩壁をよじ登りはじめました。それは大変な仕事で、手足からは血が流れはじめ、時折息をつかねばなりませんでした。上ではフェランド氏と男たちが、息をこらして断崖の上に宙ぶらりんになっているマルティンを見つめていました。
 マルティンはがんばりぬけるでしょうか? 上まで来られるでしょうか? あるいは力つきてしまうのでしょうか? 足を滑すべらせ、リタもろとも深いふちへ転がり落ちてしまうのでしょうか?
 ふちが、だんだん近づいてきました。――あとは最後の、恐ろしいけわしい岩の部分だけです――とうとう、たどり着きました!「神よ、感謝します!」マルティンは、最後の一歩をふちにかけたとき、声もなく言いました。首から子どもを下ろし、ふるえている父親の腕の中にリタを渡しました。
 フェランド氏は、座りこんでしまいました。この幸いをまだ実感できないかのようにその子を抱きしめ、だまって見つめていました。
「おお、パパ! わたしうれしいわ」リタは、両手をパパの首にまきつけて言いました。
「わかっていたのよ。朝になったらパパがわたしを助けてくれるだろうって」マルティンはかたわらに歩み寄りました。手をにぎりしめ、父親とその子を見つめ、喜びのあまり日に焼けた顔の上を涙がこぼれ落ちました。セプリは父親のそばに近寄ると、しっかり抱きつきました。セプリには、父親が死ぬかもしれなかったことがわかっていたのです。
 フェランド氏は娘をだきあげて、マルティンのそばに歩み寄りました。命の恩人に手を差し伸べ、ふるえる声で言いました。
「本当にありがとう。何とお礼を言っていいか。あの子にもう一度命を与えてくれて。わたしの子を救うために、君の命がかかっていたことをわたしは決して忘れない」
 ふたりは、互いに手を取り固くにぎり合いました。マルティンはこう答えました。
「わしが、その小さいお方をけがさせることなく、だんなさんの元に連れ戻すことができたことが、わしにとっての何よりのほうびでさあ」
「今日もう一回君たちに会いに行くよ。ともかく今は、妻のところにもどらなくては」
 そう言うとフェランド氏は、娘をしっかり腕にだき、帰り道に向かいました。マルティンはセプリの手を取り、他の者も後に続きました。
 森をぬけたとき、マルティンは息子にたずねました。
「セプリ。リタさんがあそこへ行ってしまったことが、どうやってわかったんだね?」
 セプリは答えました。
「だって、あの子言ってたもの。赤い花がどうしても欲しいって」
「そうか。でも、リタさんがあそこの岩のところにいるかもしれないと、どうしてわかったんだい?」
「だってあの子、最初の花のしげみのところにいなかったから。そうやってあの子、先へ先へと行ったんだよ。だって、だんだん行けば行くほどきれいな花があったでしょう? そして一番きれいなしげみが、最後のあの岩のところだったんだよ。でも、あの子が下に落ちてしまったことは知らなかった」セプリは、そう言いました。
 ようやく家にたどりついたフェランド氏が寝室のドアを開けると、エラはまだベッドのかたわらに座っていて、母親の手を固くにぎっていました。フェランド婦人は疲れきって目は閉じたままで、まくらに顔を埋めていました。フェランド氏は近寄り、リタを妻のベッドの真ん中に置きました。
「おはよう、ママ! よく寝られた?」リタはうれしそうにさけび、母親にだきつきました。
 母親は目を覚まし、おどろいて娘を見つめました。そして、はじけるようにその子を引き寄せると、渾身の力でだきしめました。天にも登る喜びで、なみだがとめどなくほほを流れました。一言もしゃべることができず、心の中でくりかえし感謝をするのみでした。
 エラは、小さい妹の手を固くにぎって何度も言うのでした。
「あなた、またここにいるのね!!たった一人で夜中どこにいたの?」
 フェランド氏は、ゆっくりゆっくり報告を始めました。どうやって、どこでリタを見つけたのか。リタを救うために、マルティンがいかに自分の命をかけてくれたのかを。その様子を聞いた母親の体中に戦りつが走りました。そんな恐ろしくも危険な状態で、娘が一晩中、まるで空中にういているようだったと想像し、もう一度、リタをしっかり抱きしめました。
「そんな!リタったら、死ぬかもしれないって、こわくなかったの?」止まらないなみだをふきながら、エラは聞きました。
「ううん、わたしこわくなかったわ」リタは、うれしそうに言いました。
「今、お話してあげるわ。いったい何がおこっていたのか。最初は、パパのところに行って、聞くつもりだったの。今、セプリといっしょに赤い花のところに行っていいかしらって。でも、パパは出かけていたの。だから、自分で考えたの。きっとパパは、多分ゆるしてくれるだろうって。それでわたし、セプリのところへ行ったの。でもあの子も出かけていたのよ。そして、思ったの。赤い花を自分で見つけられるって。だってセプリは、どこに行くべきか、もうわたしに話してくれていたもの。それで森の方へ行ったの。でもわたし、長いこと長いこと探したのに、赤い花を見つけられなかったの。でもその時、一度だけ、赤い小さな光を木の後ろの方に見たのよ。だから、そっちへ行ってみたの。最初は少しだけの花しかなくて、そんなきれいな赤色ではなかったの。でもセプリは言ってたわ。どんどん林の方へ入って行かなくちゃいけないって。そうしてみたら、どんどんたくさんの花が見つかったの。そして最後に、大きな大きな、とてもきれいな赤い花をつけたしげみを見つけたの。それはとってもかがやいていて、わたし、全部全部取ろうと思ったの。そしたら、あっという間に下に落っこって、石の上にたおれて止まったの。でも、その岩はとてもせまくて。だからわたし、その岩によくしがみついて、そして考えたの。そうだわ。とにかく、ここで静かに寝ていよう。パパがすぐ来て助けてくれるわって。でも、そのうち疲れてしまったの。――そして、だんだん夜にもなってきていたの――それで考えたわ。今、わたし絶対眠らなければならないって。お祈りしなくちゃいけないって。天使がきてくれるようにって。その小さい天使が、わたしが眠っていても見守ってくれるようにって。だから、お祈りしたの。

二つの羽をどうぞ広げて
ああ、神様
あなたのひよこをかくまって
サタンがわたしを飲みこむつもり
だから小さい天使に歌わせて
この子は傷つけられるべきでないと

 そして、わたしよく眠ったの。あの男の人が来るまで。わたしすぐわかったわ。パパがあの人をよこしてくれたんだって」
 ガタガタふるえながら、母親はその話を聞いていました。
「でも、わたしの小さいバッタちゃん、これからは、決して一歩もひとりで出かけてはいけないよ」心の中は喜びでいっぱいでしたが、フェランド氏は、とてもきびしい口調で言いました。

 フェランド夫人は、だれがリタを見つけてくれたのか聞いていませんでした。夫人が、すべて細かく知りたいと言ったので、フェランド氏は、セプリが最初にリタの行方をかぎだしたことを教えました。
「ぼくらは、あのかしこい男の子にとりわけ感謝しなくちゃいけないな」と、フェランド氏が言うと、リタはさっそく実行にうつそうと、ベッドから飛び下りました。でも、いったいセプリのために、どんなごほうびをあげたらいいのでしょう。セプリは、なにをしてあげたら喜ぶのでしょうか。
「セプリは、どんなお願いでもかなえてもらえるよ。セプリに、聞いてみようね。なにが一番うれしいかって」と、フェランド氏は言いました。
「今すぐセプリのところに行ってもいい?」リタが、待ちきれない様子で聞きました。フェランド氏も、マルティンと話をするために、また、他の男のひとたちにお礼のお金を渡すために、リタと一緒にセプリの家に行くつもりでした。
 リタは、セプリにとても感謝していたので、喜びのあまり部屋中をピョンピョン飛び回りました。
「でもパパ、もしセプリが、大きな動物がいっぱいの移動動物園をほしがったら?」リタが聞きました。
「そしたらセプリはそれをもらえるさ」フェランド氏は、きっぱりと言いました。
「もしセプリが、いとこのカールが持っているような、曲がった剣付きのトルコの洋服を欲しがったら?」
「もちろんそれもいいさ」と、フェランド氏は答えました。
「でもパパ、もしセプリが、カールが持っているような、大きなとりでと十二の箱いっぱいの軍隊を欲しがったら?」
「もちろん、それをもらえるよ」もう一回、フェランド氏は答えました。

 入り口の前に立っていたセプリに向かって、リタは飛んでいきました。
「こっちへ来て、セプリ」と、リタが声をかけました。
「ねえ。ありとあらゆるものの中から、一番すてきなものを願うことができるわよ」
 セプリは額にハの字を寄せながら、リタを見つめました。まるで、リタの言葉が、セプリの心の中にあるなやみを、思い起こさせたようでした。
「そんなのうそだよ」
「そんなことないわ。本当よ」リタは答えました。
「だってあなたは、わたしを見つけてくれたんですもの。なんでも好きなものを願うことができるのよ。だって、パパがそう言ったんだもの。ねえ、よく考えてみて。そして何がいいか言ってみて。」
 セプリはようやく、事の次第を理解したようにみえました。セプリは、リタが本当のことを言っているか確かめるように見つめ直すと、深く息をついてから言いました。
「黄色のふさのついた鞭」
「まあセプリ、だめよ。そんなのちっともよくないわ」リタは怒ったように答えました。
「そんなの、望む必要ないわ。もっとよく考えてみて。あなたがほしい、一番一番すてきなものを」
 セプリは、リタにそう言われて、じっくり考えてみました。そして、もう一度息をついて言いました。
「黄色のふさのついた鞭」

 その時、フェランド氏が、他の男の人たちと一緒にマルティンの家から出てきました。男の人たちは、たがいに感謝のあいさつを交わすと、帰って行きました。マルティンは、戸口のところにずっと立っていました。
「君たちにまだ何のお礼もしていなかったね、マルティン」フェランド氏は、言いました。「感謝のしるしに、ぜひ君たちが喜ぶようなものをおくりたい。何か、特別な願いがあったら言ってみてくれるかね」
 マルティンは、ぼうしをぐるりと回して、ためらうように言いました。
「わしはその……長いこと、ひとつの大きな願いがありまして……でもそれを言うわけにはいかねえです。いえ、いえ、その考えが、頭に浮かぶべきじゃねえんです」
「自由に言ってみておくれ」フェランドさんは、うながしました。「たぶんかなえられると思うが」
「わしは、いつも考えておりました」いまだにためらいながらも、マルティンは続けました。
「もし、このあたりの隣人たちのように、一頭の牛を買うことができたらと! わしは干し草をじゅうぶん持っておりますし、牛さえいたら、何の心配もせずにやっていけまさあ」
「それはいい、マルティン」フェランド氏は、言いました。
「よし、また会おう」そう言うと、リタの手を取って、帰り道へと向かいました。

「それでいったい、お友だちのセプリは何を欲しがったんだね?」
「おお、あの子おバカさんよ。黄色い房のついた、たった一本の鞭が欲しいんですって。他に何もないのよ」リタはさけびました。
「いや、いや、それは大事なことだよ」フェランド氏は言いました。
「わかるかい。ひとりひとりの子どもに、それぞれの喜びがあるものさ。お前にとって、きれいな人形のおうちが大切なように、そんな鞭が、セプリにとってはかけがえのないものなんだよ」
 この説明を聞いて、リタは納得しました。それどころか、鞭が届くのを待ちきれない気持ちになってしまいました。
 翌日フェランド氏は、町へ出かけるはずでした。リタは、そのわけをおおよそわかっていて、午前中喜んで飛び回っていました。でもフェランド氏は、リタに、家から一歩も一人で出てはならないということをきびしく言わずには出かけられませんでした。それに、ホールベックさんもきびしく言い渡されていました。ホールベックさんにしても、たとえそれがどんなに大変だとしても、これからは一瞬たりともリタから目をはなすまいと考えていました。

 その二日後のことです。マルティンが、食卓にむしたジャガイモを並べていた時、家の前の方で、うるさくしきりに鳴くものがありました――もう一回。もう一回。 そして三回目!
「カスパーの牛が、カスパーのやつを追いかけているんだろう」マルティンはそう言うと立ちあがり、確かめに行きました。セプリも父親の後を追いかけ、マルティエリ、フリィェドリ、そしてベーテリがその後を追い、みんなを連れもどすために、母親がその後に続きました。

 マルティンが驚きのあまり立ちすくみ、横に並んでいる子どもたちも、驚きのあまり目をまんまるにしていました。そこにやってきたマルティンのおくさんも、両手を打ち鳴らし、あまりのうれしさに口も聞けませんでした。家の前に、つやつやとした茶色い毛並みの、とても大きくてすばらしい、他では見られないくらいりっぱな牛がつながれていたのです。しかも、片方の角には、絹でできた房がある、白いしっかりした革ひもがついた大きな鞭がくっつけてあったのです! 鞭は日の光の中で、黄金のように輝いて見えました。
 鞭のにぎり手のところには、一枚の紙がくっつけてあって、そこには大きな文字で「セプリのために」と書かれてありました。
 マルティンは鞭をはずすと、セプリに「これはおまえのだよ」と手渡しました。セプリは自分の鞭をにぎりました。セプリが思いうかべることができた中で、一番美しくすばらしい鞭が、今や自分のものとなったのです! おまけに目の前には牛までいたのです。ユルグやケピのように鞭を使うことが出来ます。自分の鞭をピシッと鳴らしながらアルプスの上に連れて行けるような、牛までいたのです。
 セプリは大喜びで鞭を抱きしめると、「地上のどんなものも、ぼくをこの鞭から引きはなせないぞ!」と言いました。
 マルティンとおくさんは、そのすばらしい贈り物に視線をうつすことすらできませんでした。その牛が自分たちのものになるということが、ひとつの奇跡のように思われたからです。ついに、マルティンが言いました。
「牛が鳴いているよ。ミルクを外に出したいからさ。セプリ、たらいを持っておいで。今日から味わってみよう」
二つの大きなたらいに、泡の立ったしぼったばかりの新鮮なミルクが注がれ、むしたジャガイモに添えて、食卓の上にならびました。その後マルティン一家は、茶色い牛につきそって、まるで凱旋行列のように、家畜小屋に向かったのです。

 となりの家の前では、フェランド氏が子どもたちと一緒に立っていました。贈った牛がどんなふうにしてむかえいれられるのか、見ていたのでした。
 もちろんリタは、セプリだけを見つめていました。あの鞭でセプリがどれほど喜ぶか、見届けなければならなかったのです!

(終)

                  

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