岩坂彰の部屋

第34回 知の快感、あるいは翻訳学習における添削について

快感についての本を訳しました。扱っているのは、人がのめりこみやすい快楽、要するに「酒とバクチと女」という表現に要約されるような快感についての科学なんですけど、なにしろ私が訳す本ですから、ご想像のとおり、脳の生化学的プロセスを追っかけるような話で、決して難解とは言いませんが、読者にある程度の”努力”を求める本です。著者自身、

脳の快感回路について、分子レベルの話や基本的な脳の構造について一切触れずに解説本を一冊書くこともできるだろう。しかし、そんな、赤ん坊にスプーンで食事を与えるようなやり方では、いちばん面白くていちばん大切な部分を省かなくてはいけなくなる。本書は、そのような簡略な本ではない。

と開き直っちゃってます。そんなわけで、まあ、ジョブズ本並みに売れてほしいと期待するのはちょっと無理があるかもしれないんですけど、面白い話です。

この本を読んでいると、その面白いっていう感覚自体が脳の報酬系(快感回路)の活動に基づいているんだろうなと思えてきます。そう、人間の快感というのは決してアルコールとギャンブルとセックスといった本能的なものばかりではないのです。人のためにする「善い行い」でさえ同じ快感回路を活性化させます。さらには「新しい情報を得ること」も快感を発生します。もっと言えば、「情報を得られるかもしれないということ」だけで、私たちの脳は興奮するのです。

人間の脳がそうやって柔軟に快感の対象を広げられることの裏返しとして、あるいはその延長線上に、依存症という問題が存在するというのがこの本のもう1つのテーマなんですが、興味のある方はご一読ください。

本の宣伝はこのくらいにして今回の本題に移りましょう。

教育の場での添削と仕事上の添削

昨年末、亡くなられた山岡洋一さんの追悼シンポジウムに呼び出され、僭越ながら翻訳学習法について簡単な講演をしました。その中で、山岡さんが教授法として「添削は行わない」と書かれていたことについて、私自身も(かつて翻訳を教えていた頃に)そうしていたと、賛同の意を表しました。

ところが、あとで山岡さんと親しかった方から、山岡さんにずいぶん添削をされたという話を聞きました。そういえば、私自身もある程度は朱筆を入れるということをしていましたから、ありうることですね。しかしそれは、その添削の結果が完成原稿のレベルになれば、だと思うんです。

山岡さんが添削を行わないとした最大の理由は、「翻訳に正解はない」からとのことでした。たぶん同じことですけれども、私が添削をしなかった理由は、未完成な翻訳で1カ所(誤訳を)直したら、周辺の(誤訳でない)表現も連動して変えていかなければならないからでした。そうなったらもう添削ではなくて、私の翻訳になってしまいます。だったら私の翻訳と見比べてもらえばいい。実際私は翻訳の授業を、仲間の訳や私の訳と見比べながら自分の訳を考え直す場としていました。

しかし、ある程度の手直しでその人の翻訳と言える完成原稿になるレベルだったら、遠慮なく書き込んでしまいます。実際、現実の仕事の場面になると、当然そういう形が発生します。私は、一次翻訳者の翻訳原稿をリライトして納品/掲載するという仕事を日常的に行っていますけれども、これも一種の添削ですよね。

実は、そういう原稿では、最終原稿の中に翻訳者に見てもらいたい部分とあまり見てもらいたくない部分があるんです。こうしなければいけない、というところはある。でも、こうしなくてもいいけど私はこうしたい、ところもあります。これはリライトの微妙なところで、語り出すとたいへんなので別の機会に譲りますが、ともかくそれが現実です。

で、逆の立場で、私の翻訳がどこかに掲載されるとき、編集部の手が入ることがあります(書籍ではそういうことはありませんけれども、報道メディアでは日常的です)。掲載後、どこが変わっているかを自分でチェックするのですが、修正箇所の中で、次に生かそうとメモするところと、ここは忘れた方がいいと無視するところの両方あるんですね(「忘れた方がいい」についても言いたいことがいっぱいあるんですが……今は忘れることにします)。

いずれにせよ、この「添削」は、それで商品になるレベルだから成り立つ話です。

翻訳学習の快感とは

添削法のように「ここは、こうじゃなくて、こうだ」というタイプの教え方より、生徒自身が「そうなのか」と気づく発見的学習の方が学習効果が高いというのは、少しでも教育に携わったことのある人なら馴染みのある考え方でしょう。英語でheuristicと言います。

なぜそうなのか? ちょっと無理やりですが、そこに快感が絡んでくると思うんです。知ることの快感より気づくことの快感、とでもいいましょうか。だから、発見的学習のほうがモチベーションが上がる。しかも、その種の気づきの快感というのは、クイズと一緒で(というかクイズの本質的な楽しみはそういうものだと思うけど)問題がチャレンジングであればあるほど大きいものです。

だから、答えを発見するよりも、問題そのものを見つけ出す方が難しくて面白いわけで、そういう快感が強い人は、自分の翻訳と人の翻訳を見比べてポイントを発見していくことでいくらでも学習できるはずです。加えて、少なくともノンフィクション翻訳においては、その問題発見能力は読解自体におおいに役立ちます。

念のために言いますが、翻訳の中には「正解がある」部分もあって、このジャンルのこの種の翻訳ではこの訳し方が「正解」、ということはいくらでもあるわけです。そういう「正解」の知識を積み重ねていくことで身につく翻訳力は当然あります。ただ、現実を振り返ってみると、基本的「正解」は出発点で、そこから経験を積み重ねることで、どういう場面ではどういうバリエーションになるか、という細かい対応力が身につくというのが実感です。そのバリエーションの「どういう場面で」というところが、やはり発見なんですね。

添削が有効になるのは、こういう状況です。編集者の朱という添削を、翻訳者が発見の材料として受け止めるなら、それは有用でしょう。しかしそのような姿勢が身についていない学習者に添削法で教えると、逆効果かもしれません。最初に申し上げた「添削を行わない」というのは、そういう意味でした。

ただ、学習者であれプロであれ、翻訳をしようという人なら、その知的な作業に快感を覚えるからこそ学習/仕事をしているはずですよね。添削を1つの材料として楽しむ能力もきっと持っているはず。だから、気づきの快感を発展させるところから出発するのがいいのかもしれません。まずは、添削に反発し、その意味に思いを巡らし、現実に気づくという発見的学習から……。

(2012.1)

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