岩坂彰の部屋

第37回 1600年前の翻訳に思いを馳せる

般若心経、唱えられますか?

今回は般若心経の翻訳のお話。般若心経の英訳(Heart Sutra)というのもけっこう面白いのですけれども、今日はもっと昔の、インドから中国への「梵→漢」翻訳についてです。

北村彰秀氏の『東洋の翻訳論』シリーズ
モンゴル語への仏典翻訳における歴史的翻訳論を軸に、ナイダら欧米の翻訳論の視点を持ちつつ考察が進みます。
こういうふうに地道に研究を進めている方がいらっしゃると思うと、なんだかほっとします。それと、3冊とも本文50-70ページですけど、研究って、このくらいの長さでいいと思うんですよね。なぜ欧米人はあんなに長々と書くのだろうか。

まず基礎知識として、時代的な整理をしておきましょう。お釈迦様が仏教を開いたのが紀元前5世紀頃。大乗仏教の基本経典である般若経がサンスクリット語(梵語)でまとめられたのが紀元前後。そのエッセンスである般若心経の成立は、その後ということになります。般若経は、5世紀初頭に鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーヴァ:インド人とウイグル人のハーフ)が漢訳を行います。現在流布している般若心経は、7世紀の玄奘(三蔵法師:ご承知のとおり中国生まれでインドに渡った僧)の訳とされていますが、基本的には鳩摩羅什訳が踏襲されています。

般若心経を覚えていても、意味までご存じの方はあまり多くないかもしれません。でも、文字を追っていけば、漢文としてこんな感じかな、というのはお分かりだと思います。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……

観音菩薩が、深遠なる「般若波羅蜜多」(智恵の完成)を行じていたとき、「五蘊」(人間の認識作用)はすべて「空」であると見てとった。……

以下、現代日本語訳は本でもウェブでもいくらでも見つかると思いますので、各自ご参照ください。

こうして意味のあるテキストとしてお経を見ると、翻訳家としては、1600年前にこれをサンスクリットから漢語に訳した作業に思いを馳せずにはいられません。

玄奘の五種不翻

翻訳としての般若心経には、いくつかの特徴があります。まず目に付くのは、音訳が含まれていること。冒頭の「般若波羅蜜多」(はんにゃはらみた)をはじめ、「舎利子」(しゃりし)、「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、末尾の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」(ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか)などです。これらはサンスクリットの言葉を、そのまま相当する音を持つ漢字に置き換えたもので、今日の日本の翻訳で言えば、原語をカタカナ化することに相当します。〔注1〕

私たちがカタカナの音写を採用するのはどんなときでしょうか。日本に相当するものが存在しないとき。固有名詞。あるいは対応する言葉があるけれども、ちょっと違うということを明確にするためにあえて違う言葉として提示するとき。

これについて玄奘自身が、翻訳すべきでない5つのケース(五種不翻)というのを挙げているそうです。

一秘密故 意味の隠されているもの

二含多義故 多義のもの

三此無故 この地にないもの

四順古故 昔の習慣にならうもの

五生善故 原語表記に利点があるもの〔注2〕

般若心経で言うと、「羯諦羯諦……」はいわゆる真言、マントラ、陀羅尼、つまり呪文のようなもので、上記の1にあたります。

「舎利子」というのは人名で、上記に当てはめるなら3番目ということになるかな。釈迦の十大弟子の筆頭シャーリプトラのことです。舎利弗(しゃりほつ)というのが本来の音写ですが、プトラというのは「子」の意味だそうです。つまり、舎利子というのは音訳と意味訳を合体させている感じですね。Johnsonをジョン子とするようなものか?

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)。私の世代には懐かしいレインボーマンが唱えていた呪文です。サンスクリットのanuttarā samyaksambodhiは「完全なる悟り」という意味で、漢訳で「無上正等覚」といった訳語もあるのですが、上記4のケースとして、「阿耨多羅三藐三菩提」という音訳が習慣的に使われていたとのこと。〔注3〕

5番目の例として玄奘が挙げているのが、まさに「般若」です。般若は「智恵」ですが、智恵と訳しては軽すぎると玄奘は言うのです(如般若尊重智慧軽浅)。私たちに置き換えると、「気づき」では何か足りないから、あえて「アウェアネス」とカタカナにしておくというようなものでしょうか。

原文にない補足

ここまで見てきた音訳というのは原文志向が伺える方向性ですが、漢訳般若心経には、逆に、驚くべき読者志向の細工があります。上に挙げた「照見五蘊皆空」に続く「度一切苦厄」(一切の苦悩や厄災を度した=乗り越えた)の部分は、サンスクリットには存在しない、訳者(鳩摩羅什)による補足なのです。

このことは私もつい最近知ったのですが、言われてみれば、「度一切苦厄」は全体の中でちょっと浮いているような気がします。般若心経の教えの中心は、有名な一節「色即是空 空即是色」に象徴されるように、人間一般の認識論であって、個人の現世利益ではないと思うからです。

仏教の教えは苦からの脱却のための四諦(苦集滅道)、八正道といった理論を持っています。釈迦は人をいかに「苦」から救うかというところから出発したのですから、それは当然です。ところが般若心経は、その四諦すら「無い」(無苦集滅道)と言ってしまう超越的な教えなんですね。だから「度一切苦厄」なんて付け加えはどうなの?ってことになります。

一方、末尾近くには「能除一切苦」(一切の苦を取り除くことができる)というところがあって、これはサンスクリット原文にもあるんです。ということは、本来の般若心経テキスト内部に矛盾があるということになりませんか。

さあ、もしあなたがこのテキストを翻訳せよと言われたら、どうしますか。内部に矛盾があるから修正して整合性を取る? それとも、よく分からないからなんとなくそのまま?

この付け加えについては、インド人と違って中国人は実利的な教えじゃないと受け入れなかったから、「苦から逃れられる」という内容を冒頭に挿入したのだというような説明があります。だとする と鳩摩羅什は完全に読者向けに創作をしたことになります。

でも、もしかすると鳩摩羅什は、「空」の教えと「能除一切苦」の間の矛盾こそがこの経典の核心なのだと見切って、そこを強調したのかもしれません。

私だったら……できないでしょうね。そこまで。でも、よく分からないからそのまま、という態度も取りたくない……。鳩摩羅什も悩んだだろうな。

鳩摩羅什が翻訳という作業に無自覚でいいかげんなことをしたということはないと思います。上に後の玄奘の翻訳論的なものを一部紹介しましたが、鳩摩羅什より前の3世紀にはすでに、仏典翻訳はいかにあるべきかという議論が行われています〔注4〕。あくまで意味内容を重視するか、文章文体の美的要素も考慮するか、というような議論です。

キリスト教圏で翻訳理論を育ててきたのは聖書の翻訳でしたが、アジア圏でもやはり仏典翻訳が翻訳論を作ってきたのですね。

(2012.6)

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