岩坂彰の部屋

第39回 日本人はけっこう有利な立場にいるんじゃないだろうか

前回からすっかり間が空いてしまいました。

翻訳の締め切りが……なんていうのは、しょせん言い訳ですね。申し訳ありません。病気でもしているのではないかと心配してご連絡くださった読者の方には御礼申し上げます。

その間にお隣の原田勝さんが、私が前回書いた「翻訳者の名前を出すこと」について話を広げてくださってました。私が挙げた、責任の所在を明らかにするという基本問題以外に、名前を出すことの意味をいくつか指摘いただいています。名前を出さないと緊張感が持続できないというのは、その通りかもしれませんね。

ただ、訳者の名前で買ってもらえる本を訳すことは、たぶん私の場合はないだろうな。ノンフィクションは第一に内容ですからね。あ、でも訳者の名前で買わないってことはあるな……

今度原田さんにお目にかかったら、また話題をふくらませることにいたしましょう。

今回はまた全然別のお話です。

かわいそうなアメリカ人

地方出身で都会に住んでいる人は、テレビのチャンネルが地域によって違うことを当たり前のように知っています。でも、東京で生まれ育った人はなかなかそこに気づけずに、旅先で「日テレが10チャンネルなんて変」とか思いがちのようですね。関西の朝の情報番組なんか見てますと、ローカル局のスタジオで関西弁でわーわーしたあと、「この後は東京からで~す」とか言っていきなりmoco'sキッチンが始まったりするわけですけど、東京周辺でテレビを見ているかぎりは、そういうモザイク状態があるということに気がつけないでしょう。

東京にいるほうが情報収集では絶対的に有利なことは間違いありませんが、東京だとかえって気づきにくい情報もあるってことです(これだけネットが発達していても、東京のほうが情報収集で絶対的に有利だということ自体、東京の方には気づきにくいことだと思います)。

アメリカ人に対しても同じ感覚を抱くことがあります。英語が国際的に通用するということもありますが、アメリカの世界はアメリカだけで完結できてしまうってことが大きいんでしょうね〔注1〕。世界に発信される情報だと分かっているはずなのに、外国のできごとを注記もなくローカルタイムで表記したり、英ガロンと米ガロンの違いに無頓着だったり(クルマの燃費が変わっちゃいます)、翻訳者泣かせなライターがいます。

アメリカ人は何がアメリカローカルで何がユニバーサルか、努力しなければわからない状況に置かれているわけで、そういう意味ではちょっとかわいそうな立場にいると言えましょう。その点、いやおうなしに彼我の差を意識せざるをえない日本人の方が、むしろインターナショナルになりやすい。

かつてNASAが、センチとインチを間違えてミッションを失敗させたことがありました。そのくらい、アメリカ人にとってローカルとユニバーサルの基準との使い分けは難しいってことだと思います。アメリカもメートル法に統一しちゃえばいいのに、と思わないでもありません。

でも。でも、です。アメリカがメートル法にしてしまったら、ますますアメリカ人は自国のローカルさに気づくのが難しくなるんじゃないか、とも思うんですね。上から目線で言っちゃいますと、度量衡で世界との食い違を意識することは、アメリカ人にとっては貴重な学習の機会なんじゃないか、とか〔注2〕。アメリカもメートル法にすれば、という発想は、ものすごく極端に拡大すれば、日本も英語にしてしまえって話になります。そうすれば翻訳なんかいらなくなる。

外国語学習の目的

日本ではほとんどの場合義務教育で英語が学ばれます。実際問題として、英語なんて話せなくても全然困らない人はいっぱいいますけど、なぜ義務教育で全員に外国語を教えているのでしょう。将来的に英語の公用語化を実現するためでしょうか。学習指導要領には、中学校で外国語を教える目標が、こんなふうに書いてあります。

 外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。

学習指導要領は何度も改訂されていて、この目的は20年前のものに比べると「コミュニケーション」の部分が強調されているんですが、それでも「コミュニケーション能力」と「国際文化理解」が2本柱であることはずっと変わりません。指導要領が絶対だと言うつもりはありませんが、この2つの方向は両方とも大切だと個人的には思っています。

「こんな英語教育は実際の役に立たない」という批判をよく耳にしますが、その批判はコミュニケーションの部分しか見ていないんじゃないでしょうか。逆に、コミュニケーション能力に特化したやり方で「言語や文化についての理解」をないがしろにしてしまったら、やはり義務教育としては不十分です。

そこで最初の話に戻るんですが、言語や文化について理解していくには、日本の公用語を英語してもダメ、というか、してはダメなんです。母語のベースがあって、なおかつ外国語でコミュニケートしようとすることで、客観的理解が生まれるのです〔注3〕

だから、日本のように、国際言語英語と比較的隔たりの大きな言語をベースに第2言語として国際言語を学ぶことは、文化の理解という面では、実は有利な立場にいるわけです。そして、今の日本の言語状況というか、英語との距離感は、けっこういい線いってるんじゃないかと思うんですよね。まあ、学校の英語教育の実態はともかくとして。

商品名が英語表記のままというようなことはもう何十年も前からありましたし、断片的な言い回し(ちぇきら、とか)がそのまま実用的に使われることも珍しくありませんが、最近は、談話レベル、つまり文脈を伴った英語が日常の風景の中に入り込んできています。こんな風景の中で育つ子どもたちは、きっと自然にそこにある「違い」に気づいて、あっさりと翻訳の、そして文化理解の基礎を育んでいくのかもしれない――CMでジョージ・クルーニーが〔注4〕ふつうに英語を話しているのを見ていて、そんな気がしたのでした。

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