岩坂彰の部屋

第40回 ハンドは世界中でハンドだという話

 サッカーの競技規則に「ハンド」っていう反則はないんですけど、ご存じでしょうか。

 FIFA(国際サッカー連盟)が定めている競技規則を見ると、いわゆるハンドについては、「直接フリーキックが相手チームに与えられる」場合の一つとして

handle the ball deliberately
 [ボールを意図的にハンドルする]


という項が挙げられているだけです。handではなく handleです。そのhandleの説明として、付属文書の中に

Handling the ball involves a deliberate act of a player making contact with the ball with his hand or arm.
[ボールをハンドルするとは、競技者が手または腕で意図的にボールに接触する行為をいう]


と書かれています。意図的に、です。

 サッカーのスタジアムでは、ボールが選手の手に当たると、相手チームのサポーターが「ハンド! ハンド!」と騒ぐのがお決まりのパターンですが、実は、ただ手に当たっただけでは反則にならないっていうことは、スタジアムに足を運ぶようなサッカー好きならだいたいみんな知ってます。そこはレフェリーの判断です。そして、レフェリーが判定を遡って覆すわけがないことも分かっています。サポーターとしては、まあ、ここはちょっとアピールしておこうかっていう感じなんですね。

 ハンドがhandleであってhandではないことは、上記に説明に続く注釈からも明らかです。

・touching the ball with an object held in the hand (clothing, shinguard, etc.) count as an infringement
 [手に持ったもの(衣服、すね当てなど)でボールに触れることは反則とみなす]

・hitting the ball with a thrown object (boot, shinguard, etc.) count as an infringement
 [もの(シューズ、すね当てなど)を投げてボールにぶつけることは反則とみなす]


 シューズを投げるって……どこかの国でそんなやり方でゴールを防いだ選手がいたのかなあ。小学生とかなら、ユニフォームをびろーんと引っ張ってボールを受けて、「ハンドじゃないよ~」とか言う子がいそうですよね。でもそれ、ハンドなんです。

 さて、ここまでは前置き。サッカーの話だとつい前置きが長くなります。

 そんなわけで私はずっと、「ハンド」というのは「ハンドル」を縮めた一種の和製英語で、これを「ハンド」としてしまったがゆえに、「手に当たれば反則」という誤解が広まったのではないかと思ってきたのでした。ところが、最近知ったところによると、イギリスではハンドがあると”Handball!”と叫ぶのだとか。ハンドボールという立派なスポーツがあるわけですから、これは「ハンドボールちゃうで!」と突っ込んでいるようにも聞こえますが、そうではなくて、いわゆるハンドの反則を英語ではhandballと言うのです。

 さらに調べると、ドイツではHandspiel(英語に直訳するとhand play)、スイス、オーストリアのドイツ語圏とオランダでは単にHands、フランス、スペインではmain、イタリアではmani、ポルトガル、ブラジルではmaoと、要するに全部「手」という言葉でハンドの反則を表しています。有名なマラドーナの「神の手」も、これらの言語で言うときには「神の手」と「神のハンド」が合わさったニュアンスになるということですね。

 おそらく日本語の「ハンド」も、「ハンドル」の省略ではなくて、はじめからhandのカタカナ語だったのでしょう。だって、反則行為の名前として「手」と呼ぶわけにはいきませんものね(「手球(てだま)」ならアリだったかも)。

 ”handball”と ”handle”について検索していくと、英語圏でもやはり、手に当たっただけではハンドではないんだよ、と説明するページがいくつもヒットします。反則自体を「手」と呼んでいるのだから、「手に当たれば反則」と思っている人は、やっぱり世界中にいるわけです。なんだか安心してしまいますね。

概念の共有で安心……していいのか?

 なんだか安心、という気持ちを少し掘り下げてみると、「翻訳のせいで日本だけ特殊な事情になったのではなくて良かったな」という思いが自分の中にあることに気づきます。別に私がハンドという言葉をひねり出したわけじゃないですけど、翻訳に携わるひとりとして、翻訳のせいで、ということに、なんとなく責任を感じているようです。

 「翻訳のせいで日本だけ特殊に」という事態は、怖いです。でも、そういうことを考えなければいけない局面は、私たちの日々の翻訳の中にもあるんです。

 たとえば「中東」という言い方がありますね。英語のMiddle Eastは、もはやかつてのNear Eastに対する言葉ではありません。北アフリカ、マグレブまで含めてのMiddle Eastです。ここで、従来の「中東」概念を守って、現在のMiddle Eastに別訳を充てたり、説明を加えたりするのか、それとも説明抜きで「中東」で済ませるか。

 私の感覚では、英語のMiddle East概念の変化に伴って、日本語の中東概念も既に変化して(拡張されて)います。外国語と日本語の内容のこのような連動性は、さっきの言い方を使えば、とても「安心」できることなんですけど、ひるがえって言えば、その連動を押し進めるのは、1回1回の翻訳作業のわけです。Middle Eastをあえて(概念のズレを弁えたうえで)中東と訳し続けることで、中東の概念が英語に引きずられていくのですから。

 一方で私たちは、イランのnuclear programを核開発計画と訳し、日本のnuclear programを原子力開発計画と訳し分けています。そうなった経緯はだいたい想像がつきますが、 英語でnuclearと言われることがらをすべて「核」で語っていたとしたら、日本の原子力政策は……。

 翻訳というのは彼我のズレを埋める作業であって、ズレを作ってどないすんねんという話です。しかし一方で、中東のように概念自体のズレをなくして言葉の問題を解決してしまおうというのは、それもそれで安易な気もします。実際、Middle Eastを自動的に中東としておけば、翻訳は楽ですからね。

 しかも、それで安心するというのは、ひょっとすると非常に日本的な同列意識かもしれないのです。「みんなと同じ」がいいから、日本も英語的概念に揃えましょうってね。どうなのかなあ。

 そんな気持ちを抱えながら、今年も私は、スタジアムで「ハンド! ハンド!」と叫ぶのでしょう。

Image courtesy of kibsri FreeDigitalPhotos.net

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