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51.ベアテ・シロタ・ゴードンさんの思い出

昨年12月30日にベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなった。享年89歳だった。ご存知の方も多いかもしれないが、略歴を記したい。

ベアテさんは、1923年10月、ウクライナ系ユダヤ人の父とオーストリア系ユダヤ人の母のもと、オーストリアのウィーンで生まれた。父親は「リストの再来」と言われるほど立派なピアニストであり有名だった。1928年に山田耕筰氏の依頼で来日し、日本での1ヶ月の公演を成功させた。その後東京音楽学校(現東京芸術大学)に招聘され赴任したため、ベアテさんは、父親の仕事に伴って家族で日本に住むことになる。彼女が5歳半のときだった。ところが、当時のヨーロッパは、1929年に起きた世界恐慌の影響を受け経済情勢が悪化していた。また、ナチによる反ユダヤ人主義も台頭していたため、家族はその後も日本に住み続けることになる。

ベアテさんは、約10年間の日本滞在中、初めドイツ学校に通っていたが、次第に反ユダヤ主義が強まってきた為アメリカンスクールに転校した。15歳で卒業後、カリフォルニアの大学に入学する。大学在学中に第二次大戦が勃発し、日本にも帰れなくなった。また日本に住む両親とも音信不通となる。戦争で親からの仕送りがなくなった彼女は、生活のため、サンフランシスコの海軍放送局で、日本からの短波放送を翻訳する仕事を得た。当時、彼女はラジオの娯楽番組作りにも関わり、また番組の中では、日本への「早期降伏を促す内容」も入れたとのことだった。彼女は放送局の仕事に伴って、日本語の文語体、敬語、軍事用語まで勉強した。この時期に彼女の日本語力が飛躍的に伸びたと言われる。生活の為とはいえ、屈指の努力家だったことがわかる。

戦後、両親を捜す最良の方法として、22歳でGHQ(連合国軍最高司令館総司令部)の民政局に職を求めた。彼女の卓越した日本語力により採用され、来日する。日本滞在中、 GHQ憲法草案制定会議の只一人の女性として、日本国憲法の起草に関わる。特に人権条項に関与し、憲法24条の「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」の草案を書いた。日本では、1990年代になってこの事実が知られ、著名となり、日本でも度々講演に招聘されるようになった。

ベアテさんは、戦後元GHQ部員のアメリカ人男性と結婚。ニューヨークを拠点に、ジャパン・ソサエティ、そしてアジア・ソサエティで美術、伝統芸能をアメリカに紹介するプロデューサー、ディレクターとして活躍される。

私の夫は、1980年代、ニューヨークでの大学院生の時、日本文化を通してベアテさんと知り合った。その後、1990年代後半に、シカゴで行なわれたベアテさんの講演を聞く機会があり、彼女が日本国憲法草案に深く関わったことを知った。夫は、その時、是非ポートランドの自分の大学でも講演をしてほしいと依頼した。ベアテさんは、「自分が日本国憲法草案に関わったことを他言することを戦後半世紀近く禁じられていたが、やっと話せる時が来た。何処にでも出かけ講演します」と夫に言われた。しかし、すぐには叶わず、2003年5月に初めてポートランドでの講演に来られた。

日本では、1995年「1945年のクリスマス日本国憲法に『男女平等』を書いた女性の自伝」が、平岡磨紀子さんの文と構成で出版されたようだ。アメリカでは、1997年に「The Only Woman in the Room - A Memoir」が上梓された。アメリカに長く住んでいた私は、この本を読んで初めてベアテさんのような女性がいたということを知った。

2003年11月ベアテさんに初めて会った。79歳とは思えない程お元気だった。日本滞在中の約10年間に彼女が習得した言語は、ロシア語、ドイツ語、英語、フランス語、ラテン語、日本語の6ヶ国語だと言われている。両親の言語、ドイツ語の学校、アメリカンスクールなどで習った言語習得は分かる。しかし、お手伝いさんと共に暮らし話していた日本語と近所の子供たちと遊んで話していた日本語がどれ程のものか。また両親ともにヨーロッパ人で、ドイツ学校やアメリカンスクールに通っていた子供の日本語力がどれ程のものか、私自身も疑心を抱いていた 。

驚いたのは、ベアテさんの日本語が日本人と話すくらい違和感なく、又アクセントも殆どない流暢な日本語だったことだ。学習した日本語ではなく生活の中で習得したような話し方だった。日本語で多くを話した訳ではなかったが、彼女は、「日本での講演は、全て日本語でしています」と言われたので、講演ができる程の高度な語彙力もあったのだ。日本を離れアメリカに住むようになって60年以上がたっても言語力が衰えていない!サンフランシスコの放送局での翻訳の仕事とラジオ番組制作のための努力の結果が、これほど身についておられるとは!心から感嘆した。

2010年5月に再度ポートランド州立大学での講演に来ていただいた時、ベアテさんは、足が随分悪くなっておられた。車椅子は使われなかったが、階段の上り下り、また椅子から立ち上がる時には手助けを要された。しかし、彼女の講演は、7年前の講演の時と変わらず内容が明確で分かりやすく、冗談をまじえたとても楽しい内容だった。

私は幸い2003年に、夫とベアテさんと3人で、食事をしながら個人的な話をすることができた。また2010年には、2度、小さなグループで会食をする機会にも恵まれた。彼女の話はいつも明るく屈託がなく、ご主人や家族のこと、仕事のことなどを気軽に話してくれた。

ベアテさんの言葉で印象に残っているのは、2つのことだった。
 一つは、自分が関わった日本国憲法で、女性の権利についての起草を任されたときのことだった。彼女は、日本の女性に世界で一番立派な権利を与えてあげたいと思ったこと。その為、他の国の女性が持っているいろいろな権利を調べ、憲法に取り入れようとしたそうである。この起草には、日本で生活していたとき、お手伝いさんから、日本女性の立場の低さ、弱さを子守唄のように何度も聞かされていたこと。また自分の両親が家庭内外で平等な関係をもって暮らしているのに比べ、日本人の夫婦のあり方、家庭での女性の立場を子供ながらに不公平だと感じ、日本女性に同情したのだろう。

彼女は、当時アメリカ人女性でさえ与えられていなかった「仕事上、また給与の男女平等権」「働く女性のための保育所案」まで入れたかったそうだ。ところが、起草した案は、基本的条項を除き却下されてしまった。彼女は、この時日本人女性の立場をこの憲法によって画期的に変えることができなければ、今後日本女性の権利や立場を良くすることなど、長い間できないのではないかと思い、泣きに泣いたと言われた。もちろん憲法として採用された草案は、当時の日本女性の立場を格段にあげ保護するものであった。若き日に彼女が抱いた日本人女性への優しい、しかも情熱的な思いを知った。

また、私が最も嬉しかったことは、日本女性についてのことだった。ベアテさんは、楽しそうに言った。
 「日本女性はね、一般的に一人だと大人しく意見や主張も控えめなの。ところが集まってグループで仕事をすると、どの国の女性にも負けない細やかな心遣いのある立派な仕事をするのよ。私は、日本から招待があれば何処へでも講演に行っています。多い時には年6、7回もです。しかし、私の日本での講演会は、男性より女性が企画したほうが断然良く、いつも満員で大成功なのです。私は、日本女性はほんとうに素晴らしいとずっと思っています」 心に響く褒め言葉だった。

今私たちが何気なく恩恵を受けている「女性の権利」は、世界における人種偏見の歴史と同じように、長い年月を経て少しずつ勝ち取られてきたものである。

私の友人は、40年前、アメリカ人と結婚し日本で子供を産んだ。彼女は、わが子を日本人として戸籍登録をしようと思ったが、できなかった。つまり、40年程前までは、外国人と結婚した「日本人女性」の子供は、日本人になれなかった訳だ。一方、夫の二従兄弟が結婚した相手は、父親が日本人で母親が日系アメリカ人である。彼女は日本で生まれ日本で育ち、学校はアメリカンスクールに行った。大学はスタンフォード大学に行き、卒業後40年以上アメリカに住んでいる。彼女は日本のパスポートを持っていると言った。しかし私には、彼女が日本語を流暢に話しても、なぜかしら「日本人」であるという感覚は全く持ちえない。

日本人男性の子供だけが、世界中何処で生まれても「日本人」として戸籍登録ができた時代があった。これは、このような男女差別がつい最近まであったことを、身を以て感じた事例である。1980年代以降、日本人女性の子供たちも、日本人として戸籍に登録できるようになった。外国人と結婚した日本人女性たちが、長い時間をかけ「男女平等の権利」を勝ち取ってきた結果である。私もその恩恵を受けたことになる。

しかし、言語は不思議である。日本語では自分の国を「母国」自分の言語を「母国語」と言う。「父国」「父国語」とは言わない。英語にも「mother country 母国」「mother tongue 母国語」「mother nature 自然の摂理」「mother ship 母艦」などという言葉がある。言語の世界では、「女性」の方が偉大で人間の根幹を支えているように思えるのだが……。

戦後、日本国憲法の女性権利を起草したベアテさんは、60余年を経て、日本女性が憲法の恩恵を受け、逞しく成長していく姿を微笑ましく見守られてきたことだろう。

ご冥福をお祈りいたします。

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