ボストン通信ブログ

Boston Stands Strong

「ボストンで爆発があったのよ」初めてマラソンを走る友達をゴールで応援するのだと朝早く家を出た娘さんから「わたしは大丈夫。友達もみんないっしょにいて大丈夫だから心配しないで」というメールを携帯に受け取って、あわててニュースをチェックして知ったのだとクリスが言う。それから、マラソンの参加者も見に来ていた人々もみんなホテルに収容されたこと、電車も止まって、誰もが身動きできない状態であることを、娘さんからメールがくるたびに聞いた。

この日はマサチューセッツ州の祝日「パトリオッツディ」で、この一週間、ほとんどの公立学校がお休みになる。待ちに待った春の日、家族そろって11時からレッドソックスのゲームに行って、それが終わってからマラソンを見ると言うのが人気メニューである。レッドソックスのホームグラウンド、フェンウェイからマラソンのルートであるコモンウェルス・アベニューまではほんの2-3ブロック。フェンウェイからコモンウェルスに出てすぐ眼の前にあるCITGOの看板はボストンの顔のような存在で、マラソンを走っている人にとっては、あと1マイルのサインでもある。

CITGO--ゴールまであと1マイル

名前は知られていても、人口62万人のボストンは日本の都会に比べたらずっと小さな街である。そのボストンでテロが起こるなんて、思ってもみなかった。クリスからニュースを聞いた後、日本の家族や友達にメールを送り、母に電話し、Facebookをチェックする。「I’m OK. Let me know if you are」という書き込みがいっぱいである。ふだん書き込みはほとんどしないのだけれど、その日ばかりは「私も大丈夫」と書いた。夫の家族や親せきから「あーよかった」というメッセージが届く。昔いっしょに仕事をした日本人の女の子がGoogleに立てられた助け合いのリストを紹介していた。この事件で帰ることができず、泊まるところがみつからない人たちに信じられないほど多くの人たちが自分の家やアパートの提供を申し出ている。郊外に住む人たちは「どこまででも迎えに行くから」と書いている。いくつものホテルが毛布や空いている部屋を提供し、レストランが無料で食事や携帯の充電を提供し、現場近くのアパートに住む人たちは毛布や食べ物を備えた休憩所がなくなってしまったあと、走り終わった人たちを毛布にくるんで自宅に連れて行った。2001年のニューヨークのテロの朝、動揺する社員を全員集めた会社のミーティングで出された最初の質問は、「どこで献血できるか情報ありますか」だった。まだ大学を出て2年ほどの若い彼女が、もうすでに自分に何ができるかを考えていたことを今でもときどき思い出す。アメリカ人の、とりあえず自分にできることをどんどんやっていくところがわたしはすごいと思う。

ブリザードとか、インフルエンザとか、何かあるときちんと日本語で情報をメールしてくれる日本領事館から、わかっている限りの情報と共に領事館の住所と電話番号が、月曜から火曜日にかけて4度も送られてきた。日本領事館が近くにあることをこんなに心強く思ったことは今までなかった。「何かお手伝いできることがあったら、いつでも連絡ください」と住所と携帯の番号をメールで送った。

ボストンは大学と共に、マサチューセッツ・ジェネラル、べス・イスラエル、ブリガム・アンド・ウィメン、タフツといった研究医も患者も世界中からやってくる病院がたくさんあって、それがみんな爆発現場から車で5分、10分の距離にある。爆発後15分から負傷者が続々と運ばれてきて、一人につき医師と看護師などを合わせて9人ほどのチームが治療にあたったという。たまたまマラソンを見ていて、事件のあとすぐに勤務している病院にかけつけた医師が「ぼくが最初だと思ったけど、すでに他の医者がいっぱい来ていた」と言っていた。

夜になっても頭の芯がじーんとしたままテレビを見ていたら、「ニュースを見ていたずらに心を乱していてもしようがない。心を乱すのがテロの目的なんだから、手伝えることを手伝う以外は極力普通の生活に戻るべきだ」と夫に言われた。確かにそうだと、そのあとは義理の妹に啓発されて始めた手芸にとりかかった。

事件の次の日、すぐ近くの高速道路に「情報をFBIに送ってください」という電光掲示板が設置された。マラソンを見ていた人たちがとった写真やビデオの数はおびただしく、それをFBIは徹底的に調べていると言う。犯人が特定されるのは時間の問題だと信じたい。「こういうとき、アメリカ人は普段は忘れている愛国心や同志愛を突然燃やして、一枚岩のものすごい力を出すんだからね」

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