岩坂彰の部屋

第41回 Taksan years ago …

どんな分野でも、いちばん奇妙なことを探し出して、それを探求するといい。

In any field, find the strangest thing and then explore it.
ジョン・アーチボルド・ホイーラー〔注1〕

脳の働きに興味を持つ人の必読書、『脳の中の幽霊』冒頭のエピグラフです。著者ラマチャンドランは、幻肢、盲視、あるいは(別の本ですが)共感覚〔注2〕など、いわゆる「異常」な現象に光を当てることで、逆に通常の脳の働き方を明らかにしていきます。私たちは腕が肩につながっている感覚をどのように持っているのか。色を色として、音を音として感じるのはどういうわけなのか。そういう当たり前のことは、当たり前であるがゆえに分かりにくいものですが、当たり前でない稀な状況に目を向けることで、はじめて当たり前がどういうことなのか見えてくるものです。

本文の韓国バンブー英語の例は、『入門ことばの科学』から引いたものですが、この実例の存在を教えてもらったのが、『ことばは変わる』(黒田龍之助、白水社、2011年)という本でした。いちおう「比較言語学」というジャンルの入門書という形ですが、ことばの変化に関わる興味深いトピックが山盛りで、お薦めの一冊です。

言葉の世界で言えば、言葉が通じない場面、異なる言葉が出会う場面は特殊な状況です。そういう意味で、翻訳というのはもともと、当たり前でない場所で行われる営みと言えましょう。翻訳をすることで言葉の理解が深まるのは当然です。けれども、異なる言葉が出会うとき、翻訳以前に、まさに「奇妙」と呼べる現象が起こります。それが、混ぜ合わせの言葉、ピジンです。

竹から生まれたシンデレラ

まずは、この実例をご覧ください。

Taksan years ago, skoshi Cinderella-san lived in hootchie with sisters, poor little Cinderella-san ketchee no fun, have no social life. Always washee-washee, scrubee-scrubee, make chop-chop. One day Cinderella-san sisters ketchee post cardo from Seoul. Post cardo speakie so: one prince-san have big blowout, taksan kimchi, taksan beeru, play 'She Ain't Got No Yo Yo'. Cindy-san siters taksan excited, make Cinderella-san police up clothes. 〔注3〕

1950年代の朝鮮戦争時に、アメリカ兵と韓国人との間で使われた言葉として記録されているピジンの例です。「韓国バンブー英語」と呼ばれています。かぐや姫でもないのにバンブーなんですね。

このように、ピジンというのは異言語話者同士が意思疎通を図るときに、その場しのぎ的に用いられ混成言語です。この名称は、かつて中国貿易の際に英語の「ビジネス」が中国語風に「ピジン」と発音されたことに由来するというのが通説です〔注4〕

言語の狭間で発生したピジンが定着して、一つの集団の母語となると、その言語はクレオールと呼ばれるようになります。

さて、上の韓国バンブー英語ですが、話し手と聞き手のそれぞれの言語能力は以下のような関係にあると想像できます。

英語韓国語日本語
米国人
韓国人△or〇

おそらくシンデレラの物語を語っているのはアメリカ兵で、聞いているのが韓国人でしょう。双方ともある程度の日本語を解するものと思われます。アメリカ兵は日本語の単語を知っていても韓国語は話せない。韓国人は少しは英語を解する。そして、アメリカ兵は相手がある程度の日本語を解することを知っている。そういう関係です。

表面的には、お互いに知っている言葉をちゃんぽんにして使っているように見えます。しかし、よく見てみると、この文章の骨格はほとんど英語です。これだけの英語を解する相手が、「たくさん」や「少し」に相当するmany, much, littleという単語を知らないと考える理由はないのではないでしょうか。言いたいことを伝えるという点では、むしろcardoやbeeruのように、英語発音では通じないかもしれない箇所での母音付加の方が理にかなった配慮だと言えます。

言葉は意味を伝えるだけではない

ではなぜ、アメリカ兵はmany, littleではなく、taksan, skoshiと言ったのでしょう。思うに、それは、少しでも聞き手に歩み寄ろうとする気持ちの表現だったのではないでしょうか。

1950年代の韓国人が、自分が日本語を解するということをどう思っていたのか、というところはちょっとひっかかりますけれども、おそらくアメリカ人はそこまで考えていなかったでしょう。ただ、自分はあなたの話す言葉を使えますよ、ということを示して、関係を築こうとしていたのです。

この奇妙なシンデレラの物語の中に、言葉の本質の一端が浮き出ていると、私には思えます。言葉というのは、何かを伝えるということの前に、伝えたいという気持ちを表すものだということです。

このアメリカ兵は、ものすごく素朴な意味でシンデレラを「翻訳」していると見ることもできます。その姿勢は、聞き手の文化への同化です。王子さまのパーティーが開かれるのはSeoulで〔注5〕、演奏されるのは当時の大ヒット曲「支那の夜」(She Ain’t Got No Yo Yo)です。

翻訳において同化が基本だとか正しいとか言うつもりはありません。この同化は、聞き手への歩み寄りの気持ちの一つの現れにすぎません。大切なのは、翻訳においても、伝達する内容以前に、〈伝えようという気持ちの表明〉があるんじゃないかということです。

翻訳には、意味の伝達のほかに、その文章が醸し出す雰囲気や、引き起こす感情など、多層的な投影構造がありますが、そういったものはいわば意味の〈上〉に重なる層です。私たちは翻訳に際して、わりとそっちの方面には目が向きます。しかし、意味伝達よりももう一つ〈下〉にある、伝えようという基本的な気持ちのことも、忘れてはならないのだと思います。

ここまで書いてきて今ふと思ったのですが、「読みやすさ」という、よく言われる、しかし非常におおざっぱな要請も、実はこのことと底のところでつながっているのではないでしょうか。

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