ボストン通信ブログ

母の気持ち、父の気持ち

「うちの息子が婚約したのよ!」心底うれしそうにキャシーが言う。5人きょうだいで、父親が仕事をかけ持ちしていた家庭で育った彼女は、高校を出てすぐに働き始め、働きながら短大を出た。「20代のころは、毎年旅行に出かけて、すてきな独身時代だったの。だからまわりのみんなが結婚しても、気が付いたらわたしだけまだ独身だったのよね」と笑う彼女は、20代の終わりに結婚した。でもその結婚生活は10年足らずで終わりをつげ、それからずっと一人で息子と娘を育ててきたのだ。子供が小さいころから、彼女は何よりも子供第一の生活で、ボーイフレンドの話も聞いたことがなかった。そんな彼女がこの間ふっと「今の仕事に就く前には、歯医者さんの受付とかいろいろやったけど、スーパーに買い物に行って、レジでお金が足らないことに気が付いて、顔から火が出る思いで、いくつかかごから返したこともあった」と話してくれた。アメリカでは子供の養育費の支払いには厳しくて、それが滞ると逮捕されるほど徹底されている。けれども、公立の保育所や学童保育といった体制は、貧困家庭を対象にしたもの以外はまったくなく、このあたりだと月に子供ひとりにつき700 – 800 ドルはする。そういうがんばりの末、子供は二人とも大学を出て就職している。二人目の子供が産まれたときからずっと住んでいた古い家を売って、去年、自分が育った街にある55歳以上でないと入れないコンドミニアムに移った。ニューヨーク州にある大学を出て、ボストンで就職が決まった娘がコンドミニアムにいっしょに住めることを確認して、今は娘といっしょに住んでいる。ずっと昔からの女友達と夏はサイクリングに出かけたり、金曜日はムービーナイトと、独身を謳歌している感じである。よかったなあとつくづく思う。

クリスは2歳と4歳の息子を持つ働くお母さんである。夫と共稼ぎであるけれども、学校で働く彼女のほうが条件のいい健康保険に入れるために、仕事はやめられないと言う。アメリカでは公的な健康保険というのは生活保護世帯か65歳以上でないと受けられず、健康保険は雇用主から提供されるか、自分で入るしかない。家族みんなの健康保険となると月に1500ドルにも上るため、健康保険のために就職する人が多い。下の子供は耳とのどが完全に生育していない状態で生まれていて、始終健康問題で病院に走っている。それでも仕事はやめられない。夫婦ともにもともと肥満気味だったのが、食事を作る時間がないのか、ますます体重が増えて、夫は30代の初めで糖尿病の診断が出ている。就学年齢に達していない子供たちは週に2日は夫の母親が見てくれて、あとは保育所に行っている。保育所で子供が拾ってくるのか、クリスが学校で拾ってくるのか、子供も夫婦も月に一度は必ず風邪をひいたり、おなかを壊したりである。

リサは仕事関係の電話で話すだけだったのだけれども、わたしが日本人だとわかってから、息子さんのことで頻繁にやりとりをするようになった。リサの息子さんはエンジニアとして日本にある米軍基地で働いていたときに、地元の農家のあととり娘と知り合い、結婚することになった。おりしも彼女の父親が病死して、女ばかり3人が残された家に、息子さんは婿養子として入り、農家を継ぐ決心をしたと言うのだ。ボストンからは日本の大都市ですら飛行機で16 - 17時間かかる。成田空港からはその基地の街に行く便がないので、息子さんに会いに行くときは、成田に着いてから羽田まで電車で移動してそこから息子の住む街に飛ぶのだという。結婚式の前は、避けたほうがいいドレスの色であるとか、お祝いとか、おみやげとか、いろいろ気にしていた。そして今年の夏、初めての孫が産まれるというので、リサは大喜び。この間、若い夫婦が戌の日の絵馬をもっている写真を送ってきて、「これは何なのかしら?」と聞かれた。戌の日の腹帯の説明をしたら、「犬のぬいぐるみを買って送ってあげようと思うんだけどいいかな?」という。昔は子供のおもちゃに張り子の犬っていうのがあったんだと写真を送ったら、なんと「eBayで張り子の犬を見つけたから買っちゃった。届いたら、きっと義理の娘がびっくりするね」というのだ。「初めての子供で、きっといろいろあるだろうに、こんなに遠くにいて、何もしてあげられないことが本当に申し訳ないと思うの。義理の娘だけでなくて彼女のお母さんにも」という彼女の言葉に思わず涙が出た。日本にいる息子さんの新しい家族がリサの気持ちがきちんと伝わっていますようにと心から思う。

そして父親のエピソード。こちらの学校で出会った友達が日本人とのハーフのアメリカ人と結婚することになった。大きな決心に際して、1年間、日本に帰って、じっくり考えた末の結論だった。ニューヨークの郊外であった彼女の結婚式で、生まれて初めて振袖を着てひとりでは動けなくなっている娘の世話で母親が走り回っている一方で、友達のお父さんが片隅のテーブルでひとり、手酌でビールを飲んでいた。その隣に座って、ビールを継ぎ足しながら「今日はおめでとうございます」と言ったら、「娘が1年考えて、これが幸せになる道だと決めたんだから」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。ずんと心に響いた。それから彼女は911のテロで会社に影響が出て、リストラされてしまった夫と共に東京に帰って、両親の近所に住むことになった。お父さんは定年退職されて、孫の幼稚園の送り迎えが楽しくてしようがない生活をされていた。久々に彼女のご両親にご挨拶して、まだ赤ちゃんの下の娘を連れて、「今日は久々にゆっくり話したいから、うちの息子、夕ご飯までこっちでお願いね」と友達はご両親に言ったのだった。ところが、4時ごろ、お父さんが孫を連れて、自分で作った孫の好物のあさりの酒蒸しを持ってこられたのだ。「えーっ、夕ご飯までって言ったのに、何でよ」という友達に「いやあ、こいつが『今日は千春ちゃんが来てるから帰らなくちゃ』っていうもんだから」とお父さんが言う。そして彼女の息子は張り切っておもちゃを全部出して、満面の笑顔で「千春ちゃん、遊ぼ」と言って、母親を怒らせたのだった。わたしが彼女の立場だったら、きっと友達と同じように父親に怒ったに違いないのだけれど、彼女のお父さんの、いかにも戦中生まれの昭和男の娘への不器用な愛情表現にわたしはじーんと来た。

この春、姪が高校に入った。ものすごい勢いで受験勉強をしていた本人もさることながら、わたしは弟が胃の痛い思いをしているのではないかとずっと気になっていた。そんな中、第一志望校の合格発表の日の朝、「無事合格」のメールが弟から届いた。弟の笑顔が見えるような気がした。姪が産まれたすぐあとに届いた弟の手紙を探し出して、姪が二十歳になるときなんかにきっとプレゼントしようと思った。淡々と出産の経緯とその日のお天気などが書いてあるばかりだったけれども、父親になった喜びと子供への愛情が行間から伝わってくるような手紙だった。いつか自分も親になったとき、または「大人」になったとき、自分と大して違わない年だった父親の自分に対する愛情を、姪が改めて同じ目線で見られたらいいと思う。

もうひとつ、父親の話。わたしの父は昭和ひとケタ生まれで、母親を2歳でなくし、家庭の味を知らずに育って、子供にどう接していいのかわからない、まったく不器用な人だった。最初に生まれた娘に母親の名前をとって命名し、「おばあちゃんのような立派な女の子になりなさい」という娘としては過剰と感じられる期待をされ、性格的にも父親にかなり似ているわたしは、そんな父をわずらわしく思っていた。大学受験のとき、第一志望校の合格発表の数日前から高熱が出て、発表の当日もまだ38度ほどの熱があった。それでもいてもたってもいられなくて、一人でバスを乗り継いで出かけた。自分の受験番号を見つけてほっとし、同時にどっと熱を感じながら帰ろうとしたら、わたしのすぐ後ろに父が立っていた。「合格おめでとう。自分の番号を見つけた時、こぶしをこうやって突き上げたな」と笑った。あの時ほどほっとしたのは、あれからもなかったと思う。すっかり安心して、どうやって家に帰ったかもまったく覚えていない。親になることがなかったわたしだけれども、この春はなんだか親の気持ちを考えさせられる春だった。

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