岩坂彰の部屋

第42回 『聞き取り、読み取り、そして発声』

聞き取り、読み取り、そして発声

『プロが教える技術翻訳のスキル』
(時國滋夫編著、講談社)

以前、当コラムにもご登場いただきました翻訳家の高橋さきのさんから、新刊のご案内をいただきました。『プロが教える技術翻訳のスキル』。高橋さんを含む5人の現役技術翻訳者が、具体的な翻訳技術だけでなく、フリーランスとして営業的に心得ておくべきことまで、それぞれ、さまざまに語っておられます。翻訳家志望者向けのガイド的な本は数多ありますが、これはちょっとおすすめです。

エア・ディクテーション

高橋さんは、ご専門の化学・バイオ系分野の章を担当されていて、素材こそ化学分野のテキストですが、内容は、構成把握のポイントや資料の使い方など、ノンフィクション分野の翻訳全般に当てはまるお話です。なかでも、「翻訳は、かなりの程度、音の世界である」という指摘は興味深いところです。

詳細は本書をお読みいただくとして、これに関連して高橋さんは、「エア・ディクテーション」という訓練法を提案されています。

通訳の訓練にシャドウイングというのがあります。耳で話を聞きながらそのまますぐに(零点何秒か遅れて)同じことを口に出して言い続けるのです。このシャドウイングにプラスして、頭の中でディクテーション(書き取り)をしていくのだそうです。実際に鉛筆は握らないので、「エア」なのだということです。

これをまず、第一言語(つまり日本語)でやります。訓練の目的は、「各言語の独立性や、各言語内での細かい作業の独立性を高めて、混線を防ぐ」ことにあるため、圧倒的に第一言語側に分布している「脳内翻訳エンジン」のもつれをほぐすことから始めるほうがよいとのことです。

「脳内翻訳エンジン」というのは、実際にそういう独立した神経回路が存在するわけではなくて、あくまでも仮説的な概念なので、こういう話は理屈よりも実践です。実際にやってみてどうか、というところから始めなくてはいけません。

声と目が両立しない不思議な感覚

というわけで、私もさっそくやってみました。

材料は、テレビのニュースとかでもいいんですが、やっぱり関心のある内容のほうがおもしろいので、You Tubeで精神医学系の講演をピックアップして、まずシャドウイング。日本語の講演なら、もちろん問題なくできます。次にエア・ディクテーション。「改行のしかた、句読点の使い方、漢字の使い方まで、きちんと頭の中で決めていく」とのことですので、できるだけ明確に視覚的イメージを思い浮かべるようにします。すると、不思議ですね、句読点や漢字どころか、書体や1行の字詰めまで、さらにはその内容に適した媒体(専門誌)のページ体裁まで鮮明に見えてくるではありませんか。

エア・ディクテーションには次の段階があります。ステージ1がシャドウイングで、ステージ2がエア・ディクテーションですが、ステージ3でシャドウイングに抑揚と身振り、手振りをしっかりつけ(先読みと重みづけの訓練)、ステージ4それをさらにエア・ディクテーションに合わせていくとのことです。しかし私は最初のディクテーションで、書体を太字にする箇所まで見えてしまいました。日々の翻訳作業の中で、テキストの先読みと重みづけの訓練を繰り返しているわけで、最初からステージ4ができてしまったのかもしれません。

ただし、それも数分間のことでした。だんだん頭がぼんやりしてきて、視覚的なイメージは維持できるものの、シャドウイング、発声の方がついていけなくなってきます。これは奇妙な感覚でした。耳から目へはつながっているのに、口につながらないもどかしさ。それと同時に、意味がぼやけ始めます。その感覚は、翻訳をしているときに、ここは誤訳をしているんじゃないかと自分で何となく感じるときの感覚に、どことなく似ているのです。

話は逸れますが、翻訳をしていて何となくおかしい、という感覚に気づくことは、とても大切です。翻訳というのは、辻褄を合わせる、というと変だな、あっちとこっちの辻褄を重ねていく作業ですが、辻褄の重ならないところに、ぼんやりと気づいていながら明確に意識しない、というか、しようとしないことがままあります。無意識のうちに面倒を避けているというか。そうして、あとで編集者に指摘されて、そういえばここは変な感じだったんだ、と思い出すのです。このぼんやりとした感覚を最初から自分で意識できるようになると、誤訳は激減します。

エア・ディクテーション中にシャドウイングが続かなくなる感覚と、誤訳に陥りそうなときの感覚が似ているというのは、重大なことです。高橋さんの言う「翻訳は音の世界」が、実際にどのような神経学的基盤を持つか分かりませんが、少なくとも関連がある可能性はおおいにあると言えましょう。しかしこの点について、現時点ではこれ以上掘り下げられません。

Herz und Mund und…

次は英語のエア・ディクテーションです。前にも書きましたが、私はリスニングが得意ではありません。ですから、まずはシャドウイングから。ノーマルスピードの話だと、ついて行けないことが多いです。ゆっくりめの講演の動画を探します。

TEDというサイトをご存じでしょうか。いろいろな人のいろいろな講演の動画が集められています。この中から、やはり精神医学系のものを検索します。とりあえず聞きやすいスピーカーを選んでシャドウイング。しんどいです。数分で脳が疲れてきます。英語でのエア・ディクテーションは、まだ先の話になりそうです。

ところで、TEDには、字幕機能がついています。すべてではありませんが、もとの言語のスクリプトや他言語の翻訳を重ねて見ることができます(これの翻訳はボランティアの手によるものらしいです。ありがたいですね)。

日本語の字幕は、シャドウイングの邪魔になります。というか、シャドウイングをしている限りは、日本語字幕は目に入っても意味のある文章として読み取れません。これまた不思議。

字幕を英語のスクリプトに切り替えると、今度は文字の文章を読む形になってしまいます。視覚からの意味経路の方が優先するということです。文字の表示は実際の音より先行しますから、8語の字幕だったら、5語か6語目のシャドウイングの時点で、目は最後まで読んで意味をとっちゃってます。これだと、耳からの意味経路の訓練にはならないのかな。

こんなことは通訳訓練の世界では常識なのかもしれませんが、私にはなんだか新鮮な経験でした。

おそらくカギは、口で発声することなのです。聞き取りの力は、発音することで高まると言っている翻訳家/研究者の知人がいますので、こんどそのあたりを訊いてみましょう。その結果はここでご報告しますね。

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