岩坂彰の部屋

第43回 初めて知る古典新訳の世界(1)

小説が原作のドラマを見るとき、私は、「見てから読む」派です。先に原作を読んでいると、なんでそこをそうするんだよぉ、と脚本家に突っ込みばかり入れることになりますから(ほんとうに好きな小説については、映像化されても見ないようにしているくらいです)。

きっといろんな事情があるんだと思います。そりゃあ、原作になくたってオトコマエ俳優さんが演じる役柄を入れる方が視聴率は取れるんでしょう。放送回数を減らされて、エピソードを圧縮しなければならないこともあるでしょう。でも、そこ変える必然性ないじゃん、ということもままありますよね。

いや、こちらには分からない必然性があるのかもしれません。でも、ひょっとすると、ただ脚本家の意地として、「もとのまま」では済ませたくないという気持ちがあるのかもしれません。古典新訳に取り組む翻訳家と同じように。

翻訳家の意地、でも読者には

なんだか久しぶりの新刊紹介です。

日経BPクラシックスの1冊に加わったカール・ポパー『歴史主義の貧困』。「歴史主義」と書いて「ヒストリシズム」と読みます。

原書は1930年代から50年代にかけて執筆されたもので、最初の邦訳が1961年。訳者は久野収、市井三郎という、この分野の第一人者です。

50年前のこの訳は、学者さんの翻訳ではありますが、内容をきちんと捉えたうえでの翻訳ですから、いわゆる直訳ではありません。意味不明のところも(原文に起因する問題を除けば)ありません。優れた翻訳だと思います。ただ、一文一文が長い。やはり現代の一般読者向けとは言えないでしょう。

では新訳はどんなスタイルにするか。そういうスタイルというか、スタンスを検討するために(これについては次回)、まず最初に旧訳にざっと目を通す必要はありましたが、実際の翻訳作業に入ってからは、旧訳は見ないようにしました。見てしまうと、どうしても引っ張られますからね。

全体の作業手順としては、まず原書を通読しながら、関連資料、たとえばポパーの概説書や、ポパーのほかの著作(こちらは原書と邦訳書を対照したりします)なども参照して、この本の位置づけや意義を頭の中で整理して、それから実際の翻訳にかかります。私は普通、だいたい1節ごとに、ひと通り訳し終えてから原文と再照合します(ここで訳抜けなど発見できます)。今回は、ここではじめて旧訳をきちんと参照しました。解釈が違うところは、このとき再検討できます。誤訳の可能性はかなり減りますよね(旧訳の明らかな間違いなど発見すると、ちょっとうれしい)。

さて、問題は、「ここ、自分の訳より旧訳の方がいいじゃん」となったときです。文章まるごといただいちゃったらまずいでしょうが、語の表現レベルなら、旧訳のものを採用しても全然問題ありません。でも、たとえ単語1つでも、そのままは採用したくないという気持ちがむくむくと湧いてくるんですね。困ったことに。(定訳が問題となるような専門用語は別です。もちろん)

これは、普段の翻訳で編集者に対案を提示されたときも同じで、内心「その案いいな」と思っても、絶対にそれを上回る再対案を出そうと頑張ってしまうわけです。翻訳者としての意地とでもいいましょうか。

まあともかく、旧訳の表現を頂戴するかどうか、これはけっこうな悩みどころではありました。

北杜夫さんは、トーマス・マンの翻訳について、こんなことをおっしゃっています。

  実吉(捷郎)さんは……かえってまえの成瀬(無極)訳を意識しすぎたのだろう、成瀬さんの訳でいい訳だなと思った形容詞や副詞を、実吉さんはわざと意識して違った訳にしている。ぼくの考えでは、前にいい訳があったら盗んでいいと思う。それが、最も自信ある態度だと思う。
(『若き日と文学と 〈対談〉北杜夫・辻邦生』 中公文庫)

うーむ、相手よりいい訳を、なんて頑張るのは、要するに自信のなさの現れなのか。翻訳者のつまらんプライドなんて、読者には関係ありませんものね。

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