岩坂彰の部屋

第44回 初めて知る古典新訳の世界(2)

前回に続いて、カール・ポパー『歴史主義の貧困』の翻訳の話です。

一人二役の主張

タイトルにもなっている「歴史主義(ヒストリシズム)」という言葉〔注1〕は、ポパー独自の意味で使われていて、当時そのような意味で「ヒストリシズム」と呼ばれていた「主義」が存在したわけではありません。それは、ポパーが当時の世界に蔓延していると見て取ったある思想風潮に対して付けた独特のラベルだったのです。ですからポパーは、まず、自分が考える「ヒストリシズムとは何か」を説明して、それからそのヒストリシズムを批判する、という形をとります。

まずは、歴史主義ヒストリシズムを考え抜かれた緻密な哲学として描き出すべく努力した。ときには、私の知る限り歴史主義ヒストリシズムの唱道者自身がこれまで提起していない種類の論証を組み立てることさえいとわなかった。こうすることで、本当に批判に値する立場を構築できているものと期待する。(序章)

つまり、自分で組み立てて、それを自分で否定するという、唱道者と批判者の一人二役をやるわけです。その結果、この本の前半には、こんな表現が頻出します。

historicism claims that some of the characteristic method of physics cannot…

its success in the physical sciences rests, according to historicism, on the…

このような文章が1ページにいくつも出てくるのです。claimsはassertsだったりinsistsだったり、表現はいろいろです。上の2例はヒストリシズム(であるとポパーが考える立場)の主張を単純に並べているだけですが、次のような表現も出てきます。

Although historicism admits that…, it denies that…

Typical historicist arguments on which this view is based concern….

これらの表現は、ヒストリシズムの主張を示すと同時に、ポパーの視線の存在も示唆しています。このように、ヒストリシズムの立場とポパー自身の立場が、1つの節、1つの段落の中で入れ替わり立ち替わり登場してくるのです。翻訳では、それぞれの文がどの方向を向いているのか、原文の視線の動きを正しく伝えなければいけません。しかしそれは簡単ではありません。文の区切りや語順など、ほかの要因で流れを変えざるをえない場合も出てきます。

実際、原文では、ヒストリシズムの主張を示すすべての文に、上記のhistoricism claims thatが付いているわけではありません。そのため、原文では文章のつながりから、ここからここまではヒストリシズムの主張内容だということが明らかだけれども、訳してしまうと、どこまでがヒストリシズムの内容か分かりにくくなるというケースが発生します。そこらへんは翻訳者の腕しだいなのですけれど、どうしても限界はあります。

旧訳の久野収・市井三郎氏は、こんな対応をとっています。

歴史はみずからをくりかえすかも知れないが、それはけっして同一平面においてではない。とくに当の出来事が歴史的に重大なものであり、またその出来事が社会に永続的な影響を及ぼすものである場合は、ことさらにそうである 〔と《歴史主義》はいう〕。(第3節)

〔 〕内は原文にない補足であるという断り書きがあります。

読むのは研究者ではない

さて、ここで話は急に大きくなります。私はこのコラムで、翻訳というのは目的があってすることで、訳し方は目的によって決まってくるということを何度か書いてきました。今回のポパーの翻訳を依頼されたときにも、まず最初に、なぜ今この思想的な本を経済系の出版社が古典シリーズに入れるのか、というところを確認しました。

過去数十年、世界経済は予想し難いものになってきました。理論に基づく施策が予期せぬ結果をもたらしています。リーマンショックに象徴される国際的金融危機で、そのことが広く認識されるようになりました。身近なところで言えば、アベノミクスのやり方がどのような結果を招くのか、学者の間で意見が大きく割れていることはご承知のとおりです。

そこで、経済に関わる人たちの間には、現在の理論にたよるだけでなく、過去の経済学者たちの考え方に立ち戻って、元から考え直そうという風潮が生まれているのです。この本が入る「日経BPクラシックス」は、フリードマンやガルブレイスといった20世紀の経済学者ばかりでなく、J・S・ミルやウェーバー、マルクスまでカバーしています。

しかしカール・ポパーは経済学者ではありません。「科学という方法」について考察した哲学者です。なぜここにポパーなのでしょうか。

かつて、経済学、社会学、哲学は、今より近い関係にありました。要するに、それぞれの専門家が、互いの分野をある程度知り、共通の地盤を持っていたということです。経済学者にも哲学があった、と言えばかっこいいですけど、逆に言えば全体の情報量が少なかった時代ですね。ともかく、ポパーのような人の考え方は、経済学者たちにも影響を与えていたわけです。

しかし現代でも、有名な投資家ジョージ・ソロス氏は、自分はポパーの哲学の影響を受けていると公言しています。拙訳に解説を寄せてくださった日銀の黒田東彦総裁も、ポパーの哲学を研究されてきたそうです。そんな中で、上述のような世界経済の状況もあり、ポパーに関心が向いてきたということです。

つまり、私の訳の読者は、ポパーの科学哲学の研究者ではありません。研究者向けには、久野収・市井三郎氏の立派な翻訳があります。というか、研究者は原書を読めばいいのです。そういう読者ではなく、科学哲学も歴史主義も知らないけれども、ソロス氏や黒田氏が影響を受けたポパーの考え方とはどういうものか、という興味で本を手に取る方々のために、私は訳さなければならない――

それを了解して自分の中で納得するまで、何カ月か掛かりました。翻訳はそこからスタートです。

原文の改変?

遠回りになりましたが、では、ポパーの一人二役をどう訳すか、です。読者は、一列に並んだ文字の中から、「ヒストリシズム唱道者」の立場と「ヒストリシズム批判者」の立場を切り分けながら読まなければなりません。たぶん、20世紀前半の欧米の知識人なら、この切り分けはそんなに難しいことではなかっただろうと想像します。そういう図式がある程度具体的に頭の中に描けていたでしょうから。ポパーは「これ」を批判しているっていうモノが、初めからある程度イメージできていたでしょうから。でも、私が訳を提供すべき読者は、そうじゃありません。予備知識が何もない状態でこれを読んでも、どれが誰の主張やら、混乱するだけだと思います。

そこで私は、思い切って2つの立場を視覚的に切り分けることにしました。ポパー自身の立場は普通に表示しますが、ポパーが批判の対象にするために提示している「ヒストリシズム」の立場は、書体を変え、字下げをして、一見して違いが分かるようにしたのです。

拙訳『歴史主義の貧困』(日経BPクラシックス、2013)。青で囲んだ部分が地の文で、赤で囲んだ部分が「ヒストリシズムの主張」です。書体も、青の部分が明朝、赤の部分がゴシックと、使い分けています。

久野収・市井三郎訳『歴史主義の貧困』(中央公論社、1961)の相当する部分。段落の数も違います。このような場合、「小見出しの付加」も常套手段ですが、今回は拙訳でも小見出しは付けていません。

久野・市井訳が〔と《歴史主義》は考える〕を補っている箇所は、拙訳では字下げ部分(赤で囲んで示した部分)に含まれるため、言葉を補う必要はなくなります。逆に、この字下げ段落中の原文に含まれるhistoricism claims (asserts, insists)は訳出してありません(これらのことは、訳書冒頭に断り書きしてあります)。

もちろん内容的に変えたり省いたりということは一切していませんが、それでも、これは原文の大胆な改変ということになるでしょうか。原文にはこのような字下げや段落分けは存在しないわけですから。

この種の翻訳でも、1つの文章をいくつかの文章に分けることは普通に行われます。原文の1段落を2つか3つの段落に分けるというのも珍しくありません。その場合、新たな段落分けの基準は、原文の論理です。そしてそれは当然、〈翻訳者が解釈した〉原文の論理のわけです。けっして勝手な解釈ではありません。あくまでも原文に沿った論理の解釈です。でも、解釈です。

ポパーがヒストリシズムを「代弁」している部分がどこからどこまでかについても、同じではないかと、私は考えました。実は、どこが「代弁」部分かという点では、解釈が微妙な箇所もあります。しかしそこは、体裁的にこんな大胆なことをしなかったとしても、やはり翻訳者としてきちんと解釈をしておかなければならない点です。どう訳すにしても、この解釈は、つまりこの翻訳は、私の責任である、と肚をくくらなければならないわけです。

今回の翻訳の目的を考えれば、このやり方が適切だったと思っています。将来、電子書籍でそういうことが可能になったなら、このような部分はタッチ1つで色が変わるようにする、なんてこともやってみたいくらいです。別のアイコンを触ると、原書通りの段落の形に戻る、とか。あるいは原文が横に出てくる、とか(恐ろしい……)

実にいろいろなことを考えさせられた、初めての古典新訳でした。

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