特別寄稿

翻訳今昔物語「河野一郎先生の文芸翻訳のすすめ」リポート

斎藤静代


満席の会場。一言も聞き逃すまいと意識を集中させる参加者のみなさま

たいていのセミナーは、司会者があいさつをして、講師が紹介されて、そうして前置きがあって講演が始まるのですが、2月27日のセミナーはぜんぜん違った! 受付時にはすでに講師は部屋の中、ひとり、ふたりと入ってくる参加者にあれこれ声をかけ、資料の説明をして、時間前にもう始まっていたのですから。そう、まるで先週も先々週もそうだったかのように、静かに授業は始まりました。

マイクは嫌いです、とおっしゃって、生の声で授業を進める河野先生。けっして大声ではありませんが、隅々までその声は通りました。それに言葉の美しいこと。参加者は体じゅうを目にして耳にして、穏やかな口調でありながら時おり鋭い言葉を放つ先生のお話を、一言も聞き洩らすまいと集中していました。

本当の授業のように先生が参加者に質問し、参加者は辞書を引きながらそれに答えようとする――そんな濃厚なセミナーのすべてをご紹介することはできませんが、印象に残ったことをいくつか挙げてみます。

<99回キーをたたいて訳語をみつけました> 野球の選手が盗塁の秘訣を聞かれて、…to get a good jumpと答えた。通訳は「とびあがって走る」と訳したそうですが、そうじゃない。ジーニアスぐらいにしか出ていないそうです(プログレッシブ英和中辞典で見た、という人がいました)、それもjumpの項目の最後の方に、「(盗塁の)第一歩」と。辞書はおしまいから見ていくのがいい、とよく言われますが、典型的な例ですね。電子辞書でこの訳語にたどりつくのに、キーを99回たたき続けたそうです(ホントー?)。やっぱり紙の辞書がおすすめ。

当日の配布資料はA4の紙で16ページ。身振り手振りにホワイトボードを駆使した様子は、まるで大学の講義のよう

<モームの「太平洋」に51年ぶりに手を入れています> 現在改訂作業にはいっている原稿を見せてくださいました。わたしは近くにいたので、細かい赤字も校正記号も見えたのですが、とにかく赤がびっしり! おそらく遠くの席の方には、全体が赤っぽく見えたのではないでしょうか。具体的にどのように手を入れているかというと、1.漢字を減らす 2.「彼」「彼女」を減らす 3.差別表現をなくす(当時と基準が異なっているので) 4.注釈を削る 5.古い表現を現代に合うように変える。どこがどう変わったか、改訂版が楽しみです。

<自分の訳は年を追うごとに直訳に近くなっていく――ドナルド・キーン> 「死ぬなら畳の上で死にたい」「わしの眼の黒いうちは」…これらを青い目の西洋人が言ったとしたら、今ならギャグ。でもすこし前まで、このような日本語的な表現をたくさん訳語として用いるのが「いい翻訳」と呼ばれていました。確かにそういう翻訳をよく目にしましたね。違和感を覚えつつ、そんなものかと。うまく言葉では説明できないのですが、「年を追うごとに直訳に」はよくわかる気がします。腑に落ちたというか。ドイツ語の勉強を始めたイギリス人の高校生がドイツ人の先生に「慣用句をたくさん覚えなさい。そうしてそれを全部忘れなさい」と言われたそうですが、日英・英日だけでなく他の言語でも同じような議論があるのでしょうか?

<辞書は楽しんで読む> 英語を勉強する者として英語の辞書を読むのは当たり前。翻訳をする者は、それに加えて国語辞典を楽しもうとのこと。たとえば「右」の項を見ると、「アナログ時計の文字盤で1時から5時までの側」とか「心臓のない側」(まれに心臓が右側にある人もいるそうですが、その場合はどうなる?)とか。書き手の個性が出て面白いそうです。ちなみに先生愛用の面白い国語辞典は、三省堂の「新明解国語辞典第四版」。

<ひらがなや漢字で読者の読むスピードを速めたり緩めたり> 日本語の特色として、視覚的印象があります。ひらがなは、よどみなく、さらっと読んでほしいときに用いられ、漢字はゆっくり、じっくり読んでほしいときに用いられるようです。三島由紀夫の二種類の作品をくらべましたが、一つは主人公が女性でひらがなを多用、流れるような文で情感があふれています。もう一つは主人公がドイツ人の老博士で漢字を多用、しっかり読まないと情景がつかめません。児童書・一般書という区別以外にこのような使い方があることを、改めて気づかされました。

<flesh out the character(肉付けする)> ペンギン文庫のある本の表紙を指して、これは何の絵でしょう?と問われました。??誰も答えられない。幾何学的模様にしか見えない絵。答えはwoodbine(つた)で、woodbineという労働者向けの銘柄のタバコがある(あった)のだとか。つまりこの表紙を見ただけで、これは労働者の話とわかるのだそうです。なるほど!イギリスは今も階級社会(?!)なので、持ち物や嗜好品や生活環境の描写が人物や物語を肉付けする、というのは便利というか厳しいというか。翻訳者にとっては大変な話です。文化や風物を知らないと、とんでもない誤訳を招くでしょうから。

時間を忘れて講演に聞き入る受講生のみなさま。このあとティータイム!


駆け足で過ぎた1時間半でした。ここからはお茶とケーキをいただきながらの質問コーナーとなりました。ランダムに紹介します。

Q.翻訳者に必要な資質とは?
A.勘がいいこと。それから音楽好き、耳が良い人が向いています。言葉はもともと声であり、その声を文字にしたのが作品。だから原文を声に出して読めば、作品のリズムが感じられるはずです。相性がよければ、訳文のリズムも自ずとできてきます。音楽が好きな人はこの作業が楽でしょう。音楽が苦手な人は苦戦するかもしれないけれど、努力しだいですね。
Q.本を読むことは大切ですよね?
A.もちろん。軽トラック一杯の洋書と和書(3:7の割合で)を読みましょう。読んでいるうちに相性のいい文体や作家に出会えます。
Q.辞書をひいても何をしても、どうしてもいい表現が出てこないときは、どうしたらいいでしょうか?
A.どうしようもない。2週間待てば、ひらめくこともあります。
Q.ノンフィクションとフィクションで訳し方に違いは?
A.ノンフィクションは what 何が書いてあるかが大切。フィクションは what と how どんな風に、が大切です。原作のリズムを大切にしましょう。
Q.比喩表現はどのようにすればいいですか?
A.原作の味を残したいものです。どんなによくわかる表現でも、その文化を無視したような表現は×。
Q.読者に読んでもらうために新しい今風の表現を使う方がいいのか、それとも古い表現を残すべきなのか?
A.どちらとも言えません。これくらい辞書をひいて読んでくれ、と思って古い表現を使うこともあるし。
Q.流行語を使ってもいいですか?
A.翻訳者は流行から10年遅れた言葉を使うのが理想的です。今はやっている言葉が10年もつかどうかの見極めをしましょう。
Q.カンマもピリオドもつけず長々と続く文章には、どう対応したらいいでしょうか?
A.作家によって文の切り方は違ってきます。原作者の生理的条件、呼吸を表すからです。日本語としては読みにくくなるでしょうが、できるだけ原文の雰囲気やリズムを生かしてください。長文の原文を短く切って訳すのはおすすめしません。相性 chemistry がいい作家を選ぶと、生理的条件も近いので訳すのが楽になりますね。
Q.注釈の扱いは?
A.論文や中世の物語など、注釈がないと意味がよくわからないというものは別として、最近の読み物なら注釈は不要です。読むリズムを崩されますから。
Q.方言はどうしますか?
A.universal dialect と言って、どこの地方と特定できない言葉を創ることがあります。あまりに限定的な方言を使ってしまうと、理解できなくなりますから。ただ使いすぎは要注意。方言だけでなく役割語(老人、農民など)も同様です。

あっという間にセミナーは終わりました。すでに著書に書かれている内容も、直接お話を伺えば、よりいっそう深く心に残ります。もっと時間を! もっとお話を! ぜひまたこのような会で続きをお聞きしたいと思いました。

カメラマン(私)に、にっこり微笑む河野先生。どうもありがとうございました。(Y.H.)

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