セネガル通信

第3回 季節はどこへ行った

パリやロンドンに住んでいた時、東京生まれの東京育ちだった私の季節感をがらがらと崩してしまうような天候にしばしば出会った。

7月のど真ん中、フランスの革命記念日の頃に厚手のウールのセーターを着込みブーツをはいていたこととか、8月の“夏休み旅行”中に、スコットランドのホテルの部屋に暖房が入っていたこととか。

それは、「衣替え」というような日本人としての“常識”に、ほんの少し揺さぶりをかけるものだった。あえて大げさに言えば、そんなお天気に接することが「縛られずに生きる」という新しい感覚を呼び覚ましてくれることにもなり、とても楽しい体験でもあった。

しかし、ここまで“ずれ”てしまうと・・・。

年内はちらほらだったのですが、今年になってから、公邸の花壇のバラが毎日、次から次へと花開きます。

ダカールに居を構えて4か月。12月末には、一応「忘年会」もしたし、在留邦人を招いての「新年会」も公邸で行った。

「あけましておめでとうございます」というせりふも、何度か、口にした。

でも、実のところ、2014年が本当に始まったのだろうか・・・という疑問(!?)が、まだ私の中に残るのは、引越し騒ぎなどで、飛ぶように過ぎ去ったここ半年のせいばかりではなさそうだ。

「だいぶ寒くなりました。朝晩にはコートをはおれます」と友人に近況を報告しながらも、昼間の青空の下では、それこそ半袖姿にもなれてしまう天候の毎日である。海岸に泳ぐ人はさすがにいないが、高い太陽から降り注ぐ光は時として肌をじりじりとつきさす。

10月半ばに到着した時は、盛夏だった。今はもう夏じゃない。それは確か。

家の中でじっとしているとちょっと肌寒く感じられ、セーターを着てみたり、ストッキングをはいてみたり、羽毛布団にくるまって眠る夜である。

しかし、しかし・・・

何十年振りかの大雪の報、真っ白に覆われてしまった日本の風景をインターネット経由でリアルタイムに見ながら、1月2月の厳しい寒さを思い出せない自分が、少し情けなくもある。

それでも、2月3日になったらなぜだか「節分」という言葉を急に思い出した。そして「明日になったら、お雛様を飾ろう!」と思った。

30数年前、当時駐仏大使を終えて退官し、東京に住んでいた夫の父が、パリで生まれた孫娘――初孫ではないが、息子と男の子の孫しかいない夫の両親にとっては初めての女の子で、その喜びようは尋常ではなかった――のために空路運んでくれた眞多呂の内裏雛である。

木目込みのぽっちゃりしたお顔の愛らしいそのお雛様を、私は、毎年飾っている。二度目のパリ時代にも、そしてロンドンにも、そしてもちろんダカールにも連れてきた。

でも、正直なところ、節分が過ぎたらすぐに、という律義さをもって飾るのは、30年来、初めてのことだ。

娘のお雛様を箱から出しながら、私は、公邸の物置の古びた段ボール箱のことを思い出していた。10月の到着早々、備品の点検をしていた時に、棚の上のほうにFête des filles(女の子の祝祭)という文字の書かれた物を見たような気がする。

いろいろな箱や道具が折り重なった6畳間ほどの物置を、公邸スタッフとあれやこれやひっくり返し、格闘すること3時間。七段飾りの立派なお雛様が勢ぞろいして、玄関ロビーの素敵なデコレーションに生まれ変わった。 私たちの間に、何とも言えない達成感のような連帯の輪が広がった。

20年以上勤務するスタッフが目をしょぼしょぼっとさせたかと思ったら、ポソっとつぶやいた。

「一度だけ見たことがあります」

「節分の翌日」も初めてならば、七段飾りを自分で組み立てたのも、初めての体験である。

私自身の幼い頃の写真に段々飾りの前で写したものがあるが、転勤族であった父とあちらこちらに引越しているうちに、いつの間にかそのお雛様はいなくなってしまっていた。

だから、一応“常識”の範囲で、「三人官女」とか「五人囃子」等々知ってはいたものの、正確な並び順は知らず、これまたインターネットで知識を得ながら、どうにかこうにか、全く冷や汗ものでもあった。

2月4日の昼下がり、誰のものとも知れないお雛様を緋毛氈の上に座らせながら、私が必死になっていたのは、いったい何だろう。

セネガルの人やここで知り合えた世界中の人たちに観てもらいたい、という気持ちだったのか・・・、暗い倉庫に長い間閉じ込められていた人形に対する、わびの言葉であったのか・・・。

いや、それは「季節を取り戻したい」という私の、内なる切望だったのかもしれない。

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