岩坂彰の部屋

第46回 翻訳研究への手引き書2冊

今回は、昨年出版された翻訳関連書の中から、翻訳研究 (Translation Studies) の入門的な本を2冊紹介しましょう。

まずは『翻訳研究のキーワード』(研究社)。
Routledge Encyclopedia of Translation Studies〔注1〕という翻訳学事典の部分訳です。名目上は翻訳書ですが、丁寧に補足説明が加筆され、キーワードを手掛かりとした翻訳理論の入門書といった作りになっています。原書の第2版の第1部に収録された75項目の中から、27項目がピックアップされています。

27の項目を眺めてみると、「等価」や「明示化」といった翻訳理論で使われる用語もあれば、「広告翻訳」や「ローカリゼーション」などの実務レベルの議論、さらには「翻訳倫理」や「翻訳の質」など、私たちの仕事のやり方に関わる問題もあります(右下の目次の図版は拡大してご覧いただけます)。




訳者解説によると、原本の第1版(1998年)にあったLiterary translation(直訳)やFree translation(自由訳)、Metaphrase(逐語訳)、Paraphrase(パラフレーズ、意訳)、Imitation(模造訳)といった項目は、第2版(2009年)では削除されているそうです。これらの項目の「学問的重要性に変化があったことが読み取れる」とのこと。

たしかに、直訳だ意訳だというレベルで議論しても、結論が出ないどころか、話がかみ合わないようなことはありますよね。直訳/意訳に関わる問題意識は、翻訳研究では「形式的等価/動的(機能的)等価」や「異化/同化」、「起点志向/目標志向」といった形で語られます。これらの用語の使い分けにはそれぞれの背景があって、ほかの問題意識との関わりで言葉が選択されます。「同化」〔注2〕という言葉を使うということは、すでに原文言語と訳文言語の間に単純な対応関係がないということを前提とした話になっている、つまり、同じ土俵で話ができるということですね。

業界関係者がみんな素養としてこうした知識を持っていれば話が早いのですが、それはちょっと難しい。でも、言葉使いはともかく、少なくとも「意訳」という言葉で自分は何を言いたいのかを意識しておけば、話も少しは前に進められるというものです。そんな基礎知識を得るためにも、この本はお勧めです。大学のテキストとして利用することを意識してか、項目ごとに「議論のヒント」(こんな点を考えてみよう、という内容)が付いているのも、なんとなく今風。

もう1冊は、『よくわかる翻訳通訳学』(ミネルヴァ書房)〔注3〕

こちらも、冒頭、目次の前に、「逐語訳」「直訳」「意訳」「自由訳」をどういう意味で用いるか、定義してあります。

全体の構成を見ると、最初の概論(第1部 翻訳とは? 通訳とは?)に続いて歴史(第2部 翻訳と通訳の歴史)を概観し、翻訳通訳者の役割を多面的に考察し(第3部 社会における翻訳と通訳)、最後に翻訳理論への手引き(第4部 翻訳通訳研究へのアプローチ)をまとめています(こちらも右下目次図版参照)。

タイトルは「翻訳通訳学」になってますけど、「学」の中身にはあんまり深入りしていません。翻訳通訳全般の基礎知識や、業界のさまざまな側面について、それから、翻訳通訳に「学」がどう関係しているかを通覧させてくれる作りです。


一例として、私が片足を突っ込んでいる記事翻訳の世界についての節を見ると、『ニューズウィーク』誌のある記事について、原文のこんな内容が割愛され、こんな補足が挿入されてリライトされているという紹介があり、以下のようにまとめられています。


……そこでは原文を忠実に翻訳するだけでなく、翻訳と編集が一体化した作業となります。そうなると、これは翻訳と言うより、”trans-editing”(「翻訳」+「編集」)と表現するのが妥当といえます。
このようにニュースの翻訳では、原文のテクストを翻訳してから、「書き換え」をして編集するということが日常的に行われているのです。それは何よりも、ジャーナリズムの仕事の中心には編集があり、翻訳はその業務の中に組み込まれているからです。
(第3部第6章「メディアと翻訳通訳」第1節「ジャーナリズムとニュース翻訳」p.87)

ニュースの翻訳では、翻訳はジャーナリズムの編集業務の中に組み込まれているというのは、まったくその通りで、たぶんこの世界に馴染みのない方々にもこの仕事の特徴がうまく伝わっているんじゃないかなと思います。

第4部の「翻訳通訳研究へのアプローチ」では、翻訳学、通訳学の基礎が、トピックごとにほどよくコンパクトにまとめられています。翻訳理論に関心を抱いた方が最初に触れるのにちょうど良い作りかと。私も、あまり馴染みのなかった「通訳学」については、なるほどなるほど、と読ませていただきました。

ST、TT、……イニシャルトーク?

翻訳理論の文献を読んでいると、必ず「起点テクスト」「目標テクスト」という表現を目にします。これはsource text, target textの訳語で、ST, TTと略すこともよくあります。大ざっぱに言うと「原文、訳文」のことですが、通訳においては原文、訳文とは言えないわけで、翻訳通訳学では起点/目標テクストとするのが定訳となっています。

同じように、起点言語/目標言語(SL/TL)、起点文化/標的文化(SC/TC)も使います。学問的議論をする際には概念の定義が必要なのでこうした用語が使われるのですが、しかし私たち現場の人間が一般のクライアントを相手に翻訳について説明しようとするときには、STだのTTだの言っているわけにはいきません。

このコラムでも、STとかTTとか言わずに、だいたい原文、訳文と言っています。上の注2の中で、「訳文側の文化」という表現を使いましたが、これはTC(target culture)のことです。学者さんを相手に書いているわけではないので、当然ですね。

翻訳理論に引きつけて言えば、source textを「原文」と呼ぶことは、翻訳としては同化です。「学者さんを相手に書いているわけではないので」というのは、機能的アプローチです。私のスタンスは「目標志向」ということになります。こんな風に見ると、翻訳通訳の理論というのは、詰まるところコミュニケーションの理論なんだな、と思えてきます。

このサイトは翻訳学校サン・フレア アカデミーの運営です。

PAGETOP