Did you know that?

58. ロッキー山脈をこえて(後半)

コロラド・スプリングスからポートランドの我が家までは、コロラド州、ユタ州、アイダホ州を通りオレゴン州に入る。この4州の殆どの高速道路沿いは、草原砂漠地帯や岩山や雪山が延々と続く。

車中からの景色

何時間もこのような地を運転しているといろいろなことに遭遇するものだ。ユタ州からアイダホ州に続く高速道路では、2月であるから雪道もあった。途中車がゆらゆらするほど突風、強風が2時間程続くこともあった。最も驚いたし怖かったのは、Tumbleweedという枯れ草の丸いボールが、大小取り混ぜて高速道路をくるくる回りながら横切ることだった!

Tumbleweedというのは、木がない草原地帯で、雨が降らないため枯れてしまった草が根こそぎ風で吹っ飛ばされ、風吹く方向にくるくる回りながら飛んで行く草のことだ。初め車にぶつからないようにと避けていたが、そんなことができない程突然襲いかかってくる。しかし、枯れた草なので、ぶつかるとすぐに粉砕し、車にダメージができることは余りないようだ。
アメリカ西部の歌や映画では、Tumbleweedが「退屈さ、廃墟、むなしさ、目的のない放浪の旅」等を象徴している。

この地を運転しながら思ったことは、第二次世界大戦中、真珠湾攻撃後、カリフォルニア州全土、ワシントン州、オレゴン州西部、アリゾナ州南部の日系人や日本人約11万人以上が、10ヵ所に設置された強制収容所に入れられたことだった。その強制収容所は、コロラド州、アイダホ州、ユタ州を含む、私が運転しているTumbleweedが転がり続ける、何もない砂漠地帯だったことを思い出させた。

特にオレゴン州ポートランドやワシントン州シアトルなどの該当者たちは、アイダホ州南部にあるミニドカ強制収容所(Minidoka War Relocation Center 戦時期転住所センター)に送られた。アメリカ人は、「War Relocation Center ]と言ったが、日系人、日本人は「Internment Camp」もしくは「Concentration Camp」つまり「強制収容所」と呼んだ。すべての財産を没収され、緑と土壌豊かなアメリカ北西部から、石ころだらけ、木も水源さえないような地域に送られてきた日系人たちが、どのように苦悩したかを思った。その歴史は多くの日系人たちによって語られ映画にもなった。私は、この地を運転して行くことにより、その過酷さが理解できたように思った。

第二次世界大戦中のミニドカ強制収容所

ちなみに、ここポートランドには、ミニドカ強制収容所で生まれた「Minidoka Swing Band」というバンドグループがある。当時の収容所内での日系人の理解を深めると共に、古き良き音楽を継承しているようだ。私は、友人のご主人が、日系人でもないのにこのバンドに加わりサキソフォンを吹いておられるのに驚いた。バンドの音楽は優しく、温かく、ソロの女性たちの歌声は、力強くも優しかった。多くの収容所の人たちは、このような歌と歌声にきっと辛い日々を癒されたのではないだろうか。

演奏中のMinidoka Swing Band
画面をクリックして下さい。

コロラド州、ユタ州、アイダホ州を通り、やっとオレゴン州最東端の街オンタリオ市についた。「後6時間ぐらいかな〜」と思った。ところが、今までは制限速度(Speed Limit)が75マイル(120キロ)だったのが、急に65マイル(104キロ)になってしまった。同じような道なのに、オレゴン州では85マイル(136キロ−10マイル程度の速度オーバーは見逃されることが多い)では走れない。アメリカはこのように高速速度制限まで州によって違うことが分かった。

制限速度75マイルの標識

またこのオンタリオ市は、ちょうどSalt Lake Cityと私の住むPortlandまでの中間地点である。私たちは制限速度が遅くなることによって所要時間がかかりすぎることを懸念し、ここでは休憩をせず、一路西へ向かった。20マイル程行った時だろうか、運転していた夫が言った。「ガソリンが4分の1ぐらいしか残っていないので、途中で入れよう」と。

ここから悪夢が始まる……。オンタリオ市を過ぎた後、80マイル(130キロ程)近く大きな街がないことを夫は知っていた。初めは途中でガソリンスタンドがあるだろうと楽観視していた……。しかし、起伏の多い草原地帯や山を行けども行けども小さな村さえない。高速道路の車以外、人っ子一人いない。

人家も何もない地帯が永遠に続くと思った

車のガソリンメーターに黄色い警告ランプがついた!ここから心配が始まった。途中で遠くからテキサコのガソリンスタンドのマークが見えた!!夫と私は大喜びで高速道路を下りた。しかし着いたところは廃墟と化していた……。誰もいない……。ガソリンは後どれくらい持つのだろうか?高速を走りながら次の出口に向かって行く。後9マイル(15キロ)、何もなし。後15マイル(24キロ)村も何もなし。後5マイル(8キロ)な〜〜んにもない。美しい景色も何もあったものではない。私は、もうガソリンのメーターの針が下がるだけ下がったのを見て心臓が凍りそうだった。車が止まってしまったら、この山の中で寒さに震えながらどうするのだろう……。

私は夫に言った。
「どうして、こんなことになるのよ。運転していてガソリンがないこと気づかなかったの?運転していたのは、あなたよ!!コロラドに行くときこの道通っていったでしょう!ガソリンスタンドがないこと分からなかったの!!」 怒り爆発である。
「もうこの辺で止まって AAA(トリプルA-事故や故障時に牽引サービスをする全米に拠点をもつ会社)に連絡して、ガソリンを持ってきてもらおうよ。いつ車が止まってしまうのか心配しながら走るのは、もうイヤだ!!」
夫は答えた。
「とにかく走れるだけ走る。止まってしまってからどうするか考える」
私、
「じゃ、次の出口で高速を下りて、民家を捜してガソリンを分けてもらおうよ」
夫、
「こんなところで高速を下りて、もし車が止まってしまったら最悪だ。止まるなら高速上で止まらないと、誰にも助けてもらえない。とにかく走れるだけ走って、次の大きな街Baker Cityにできるだけ近づく」
私、恐怖の沈黙。

何マイル走ったのだろうか、Baker Cityが後7マイル(11キロ)の看板が見えてきた。 夫は、下り坂はギアをニュートラルにして、できるだけガソリンを使わないようにした。ギアをそのように使うのが良かったのかどうか分からない。長い上り坂があると、又2人でドキドキした。しかし、やっとBaker Cityの出口が見えた時、2キロメートル程先のガソリンスタンドに着いた時、その安堵と喜びは、何物にも代えられなかった。

ガソリンはほとんど空だった。ガソリンスタンドのおじさんが言った。
「途中でガソリンが切れて、歩いてここまで買いにくる人がよくいるんだ」
危機一髪!

帰路25時間の運転中、車窓から素晴らしい景色があちこちで見えた。このようような自然の美しさは、言葉でも写真でも到底表せないと思った。

ガソリンを入れ気分が落ちついた私たちは、先を急いだ。1時間半後、途中でペンデルトン市(参照:「53.54.ペンデルトンと南相馬市」)近郊で高速を下り、夕食をとった。山中にも草原地帯にも何処にでもあるファーストフードの店。私はアメリカに住んでいるが、普段ファーストフードを食べることはほとんどない。しかし、コロラドからの帰路、何度かマクドナルドやサブウェイなどに立ち寄った。これらの店舗は、僻地のあちこちで孤軍奮闘し、高速道路を行き交う人たちに暫しの休息と食事を与えている。ファーストフード店の存在のありがたさを改めて思った。これは、揺るぎない基盤を持つ大型ファーストフードチェーン店だから成り立つビジネスなのである。

陸の孤島のような場所にたつSubway

ポートランドまで後1時間と言うところで、大雨が降り始めた。コロンビア川沿いは、木々が茂り自然が息をしているように感じた。

帰路1426マイル、2295キロメートル。札幌から那覇ぐらいまでぐらいの距離があるらしい。事故も起こさず、離婚の話しも出ず、よく帰ってきたものである。

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