Did you know that?

62. イスラエルへ行く(地中海沿岸を北へ)−④

学会が終わった翌日、夫と私はレンタカーを借りてテル・アヴィヴから北部の海岸線に位置するCaesarea(カエザリア)とHaifa(ハイファ)、Acre(アッコー)を訪れることにした。

【Caesarea(カエザリア)】

カイザリアは、初代ローマ皇帝カエサル=アウグストゥス(在位BC27~AD14)にちなんで、カエザリアと名付けられた。この地はユダヤ王ヘロデ(在位BC37~BC4)がつくった街で、立派な宮殿、競馬場、円形闘技場、銭湯跡などがあり、当時、この真っ青な地中海を眺めながら生きた人びとの様子が伺える。

しかし、円形闘技場は、ローマ帝国時代、多くの人がライオンと戦わされた場所だそうだ。ローマに抵抗したユダヤ人も数多く殺された。この闘技場は、現在修復され、野外劇場として使われている。人間とは、なんと惨いことをして楽しむことができるものか、当初の目的を考えなければ、観客が地中海の潮風を受けコンサートを楽しむ風情は、平和と優雅さの象徴のように思える。

修復され劇場として使われている立派な円形闘技場

2人のギリシャ系キリスト教牧師は、何を思っていたのだろう。神秘的光景に思わずシャッターを押した。

【Haifa(ハイファ)】

私たちがハイファへ行った理由は、夫の高校時代の友人T氏に会うことであった。T氏は日系アメリカ人で、ニューヨーク生まれのユダヤ人の夫人とこの地に移って25年以上が経つ。T氏は、長い間宗教とは何かを問い続け、苦悩の末、キリスト教信者でありながらも自分なりの宗教を築き上げた。宣教を通じイスラエルの人びとばかりでなく、世界中で苦しむ人びとを精神的、肉体的、経済的に助ける活動をR夫人と共にしておられる。

私たちがMt. Carmel(カルメル山)にある彼らの集会所を訪れたとき、そこには、T氏夫妻の活動を指示するたくさんのボランティアの若者たちが働いていた。T氏の信者や援助を求める人びとのための集会所は、世界中からの寄付金で建設された。驚いたことに、この立派な集会所は、7年前、3人の建築家といろいろな国から60人のボランティアがこの地に集まり、彼らの2年間の無償の労働によって完成した。

ボランティアたちによって建てられた集会所

昼食時のボランティアたち。若い女性が多かった。

私は、特にR夫人の活動に感銘を受けた。R夫人は、アフリカからの難民、特に妊婦や幼子をかかえた女性の救済に日々奮闘しておられる。R夫人から聞くこれらの難民女性たちの避難の経緯や悲惨さは、私には想像を絶するものであった。捕まれば殺され、内蔵をとって売られるような危険からの逃亡。それでも逃げなければ命がない。幼子をかかえ、お腹の子を守りながら逃亡とはいかなるものか。R夫人は、特にこのような女性たちを中心に逃避路を確保し、生活の場を与え、自立の手助けをしている。しかし、年間わずか20人を支援するのが精一杯だそうだ。彼らは、2年の間にここで子供を産む、あるいは子を育て、生きるすべをすこしでも習い出て行かなければならない。次の助けを求める女性たちがこの安息の場所にくるからである。

裁縫の技術を習う難民女性(インターネット掲載のため、後ろを向いてもらった)

このようなバッグを作って売っている。R夫人が私にバッグをプレゼントしてくれた。お金はいらないという。私は申し訳なく、「難民女性たちを助けるために使ってください」と、心ばかりの寄付金をおいてきた。R夫人は、「それならば」と喜んで受けとってくれた。バッグには作った人の名前が書いてある。

そのように忙しい中、R夫人は、私たちにハイファとアッコーの街を案内してくれた。

ハイファはカルメル山の麓にある地中海に面した美しい港町である。ただ、1991年の湾岸戦争時には、イスラエルに向け発射されたミサイルがこのハイファの街にも落ちた。R夫人が言った。
「あの電力会社に向けて射たれたミサイルは、的を外し近くのショッピングセンターに落ちて死傷者を出したのよ」
近年では、2006年のレバノン侵攻時にもレバノンからのミサイルがハイファに着弾したそうである。

ハイファは、イスラエルでテル・アヴィヴやエルサレムに次ぐ第3の都市である。自由と平等の街と言われ、正統派ユダヤ教徒と他宗教の人びとが、お互いを尊重し共存しようとしていると言われている。

2000年に完成したバハーイ教のBahai Gardenはハイファの街の中心にある。完全な左右対称の庭園。

【Acre(アッコー)】

アッコーは、歴史が大好きな夫がどうしても行ってみたい街だった。旧市街地は、2001年にユネスコの世界文化遺産に登録された。地中海に面した良港を持つアッコーは、紀元前2000年には街として機能していたそうである。地上の街は、オスマン帝国時代の建築物が現存しており、歴史の重みを感じずにはいられない。また、夫が特に興味をもったのは、地上の街よりずっと古い十字軍時代の遺構がある地下であった。この港は、外敵が海側から責めにくい地形をしており、十字軍が最も長く、200年もの間支配した街だ。現在、旧市街地にアラブ人が住み、城壁の外の新市街地にはユダヤ人が住んでいるそうだ。

アッコーの八百屋さん。イスラエルで食べた野菜や果物はどれも新鮮でおいしかった。ヨーロッパの野菜の輸入は、イスラエルからが多いそうだ。

古い石畳の道を歩きながら、スカーフを巻いた女性たちを見ながら、「オスマン帝国」っていつの時代だったけ?「十字軍」って、キリスト教徒がエルサレムをイスラム教徒から奪回するのが目的だったよね。7、8回遠征軍があったと思うけれど……、どうしてここに遺構があるの?

私の頭では、どれ程調べても勉強しても、北アフリカから中東(ヨーロッパから見た方角だそうだ)における歴史、宗教、戦争、民族間抗争のことは複雑過ぎて深くは理解できないと思った。

私たちが滞在していた6月中旬、「イスラエル人の高校生3人が行方不明になった」というニュースが流れた。パレスチナ人に誘拐されたのだろうという噂はあったが、夫も私も「ふ〜ん、大変だな」程度の思いだった。アメリカでは、殺傷事件は日常茶飯事のことだ。離婚した夫婦のどちらかが、子供を連れていなくなってしまうことも数々ある。 私たちがアメリカに戻ってしばらくしてから、この3人の高校生たちがパレスチナ人に誘拐され殺されたということが分かった。その報復として今度はパレスチナ人の16歳の男子が誘拐され、殺され焼死体で見つかった。
この2つの事件が引き金となり、イスラエルの街にミサイルが飛び交う戦争の事態になるとはまったく想像できなかった。イスラエル軍のガザ地区への空爆では、多くの死傷者がでている。イスラエルにも死者が出始めた。

私たちが訪れた6月のイスラエルは、平和で美しい国に思えた。テル・アヴィヴでは、若くて美しい女性たちが、おしゃれして夜の街を自由に歩き、レストランでおいしいものを食べながら話しに花を咲かせていた。

エルサレム近郊のユダヤ人地区とパレスティナ人居住地区を隔てる分離壁。このパレスティナ人地区に住む人たちには、イスラエル人たちのような自由と豊かさはないのではないかと思った。

「イスラエル生まれのユダヤ人はSabra(サブラ—サボテンの意味)」と呼ばれている。外側は固くて刺々しいが、中身は柔らかい。短い滞在ではあったが、私たちが出会った人びとは優しく親切であった。

ホテルの近くのお店で会ったフランス系ユダヤ人の若い女性が言った。
「私は、フランスで生まれ育ったユダヤ人だけれど、近年、ユダヤ人はフランスでは生き辛くなってきている。イスラエルでユダヤ人として生きる方が幸せだと思い、半年前に移住してきたの」
今、彼女は何を思っているだろうか?

平和を祈りつつ。

地球も一つ太陽も一つ。地中海に沈む夕日は本当に美しかった!

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