セネガル通信

第8回 パリの休日

壁面いっぱいの横長の鏡を前にして、白い陶器の洗面台のところに立った私の左手が、無意識のうちに斜めにすっと伸びるのに気づき、あわてて引っ込めた。

ミネラルウォーター 《キレンヌ》 ダカールから南に50キロくらいのところの村のものです。(6本1700フラン、350円くらい)

「ここでは、ペットボトルじゃなくてもいいのよ」

夏休みに訪れたパリのホテルの洗面所で、私は、声にはならない独り言を頭の中でつぶやきながら、左手にコップをもち、おもむろに、蛇口をひねった。

水道の水をコップに満たしながら、すっかりなじんでしまった歯磨きの時の動作――まずは、ペットボトルを左手にもち、蓋をはずしたら右手に持ち替えて、グラスにミネラルウォーターを“適量”注ぐ――が、ひと手間多い、実に面倒なことだということに、あらためて気づいた。

ささいなことではあるけれど、ダカールで快適な日々を過ごすためには、しなければならないことがたくさんある。

赴任するにあたって、現地大使館が作っている手引書を何回も読み、また、現在過去を問わずセネガルを知っている多くの方から生活上のノウハウをいろいろ教えていただいた。

その中で、一番気になったのは、やはり身体のことで、「なんといっても心身健康でなければ」と、子供の頃から何度も聞かされていた母の言葉が、その時も思い出された。心配症の母は、事あるごとに、お題目のようにそう唱えていたのだ(そして、90歳を越した今も、まだ唱えている!)。

フランスに行った時も英国に住んだ時も、あまり気にしなかった“お題目”だが、セネガルに来るにあたって、ちょっぴり意識した。

なんといっても、マラリアもあれば、肝炎やら髄膜炎の予防注射も必須の国である。

モーリタニアとの国境、セネガル川支流のほとりに、ヤマハが(おそらく)無償援助で設置した浄化設備。近隣の主婦たちが、ポリタンクに水を汲みに来ます。蛇口には鍵があり、料金(確かタンク1本が25フランだったと思う)を支払うと開けてもらえます。

「生野菜は絶対に食べない」「高級ホテルといえども、氷の入った飲み物が出されたら、溶けないうちに飲んでしまう」「夕方の外出では長袖長ズボン」と、以前から、夫のアフリカ出張よもやま話はたくさん聞かされていたけれど、住むとなると、「へぇ、たいへんね」というだけでは済まない。毎日の生活の中でどのようにすれば“危険”から遠ざかることができるのだろうか…

ダカールの日々が始まるまでは、いろいろな情報を得ても、アフリカ初心者の私は、具体的な生活イメージを作れないままだった。

そして、結局、ダカールに来たら、「飲み水のみならず歯磨きもコンタクトレンズの洗浄にもミネラルウォターを使ってください」という大使館医務官からの指示を律儀に守ることになるのだが、そうなると、シャワーを浴びながらも、なんとなく、口をぎゅっと結び、目をつむる自分がいたりして・・・、我ながら、その姿にはちょっと滑稽な感じをもった。

庭のプールの美しいブルーを見ながらも、「泳いでいて間違って水をがぶっと飲んだら、どうするの!? 潜水ごっこなんてできないじゃないの!」(もちろん、今さらこの年齢で、そんな遊びはしませんが)・・・

こんなことを考えていたら、それがストレスになるんじゃなかろうか? などと思ったりもした。

慣れとはオソロシイ。

ダカールでの日々を重ねるうちに、ミネラルウォーターでの歯磨きもコンタクトレンズ洗いもごく当たり前の習慣になってしまった。

もっとも、水道の水を飲んでもおなかを壊さないセネガル人公邸スタッフたち――この国には、いまだに川や共同井戸から水をくみ上げる人々もたくさんいるのだ――に対しては、なんとなく後ろめたく、洗面所にペットボトルを置いている理由を問われたわけではないけれど、はっきり説明できずにいる。

そして、日本の水道水のレベルの高さにいまさらではあるが感謝する。


首都ダカール市に水を供給する浄水場を8月初めに見学しました。セネガル川流域のギエール湖から取水。湖の取水口まで、炎天下、ライフジャケットを着せられて。暑かった!!!

公邸の厨房には、もちろん浄水器がとりつけられている。でも、公邸の畑で収穫した野菜を生で食べる時には、その水に赤ちゃんの哺乳瓶消毒用の薬剤を入れてしばしの間浸けておくのも当たり前、煮沸した水道水を大量に作ってからさらに充分冷やしておいて、ゆで上がったざるそばを洗い流すことも(これらの準備、実は私ではなくて、すべて公邸のスタッフがやってくれることなのですが)日常になった。

口に入る水のことだけでなく、お札が汚いのもとても気になるので、ハンドバッグの中には除菌ティッシュをいつもの倍は常備。

日本で子育てをした時、台所で食べ物を落とした子供たちに対して、「大丈夫、大丈夫、そのくらい。ふっふってゴミを吹き飛ばして食べちゃいなさい」と言っていた私としては、百八十度の変身である(フランスでの子育て時代は、室内でも靴の生活だったから、さすがにそれはなかったけど)。

公邸スタッフは、しょっちゅうしょっちゅう石鹸で手を洗う。台所の流しでの洗いものも掃除のためのバケツの中にも漂白剤をじゃぶじゃぶ。

でも、本音を明かせば、塩素の匂いはどうしても好きにはなれない。ここ10年くらい、エコロジーを考えて、重曹とお酢をできるだけ使うようにして、漂白剤は“最後の手段”みたいに生活していた。

だから公邸の物置の中に大量に備蓄されたジャベル(フランスでは漂白剤のことをジャベル水と言います)の容器を見た時の心境はとても複雑だった。

セネガルは日本とは違う、もちろん、フランスとも英国とも。それにセネガルの人々の“ジャベル信仰”を認めないわけにはいかないし・・・背に腹はかえられぬ、というところだ。

公邸の倉庫の戸棚の中。 ジャベル水(赤い蓋)が並ぶ! 日本の蚊取り線香も常備です。

(つづく)

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