岩坂彰の部屋

第49回 「言葉は変わる」。どうして?

国語シリーズです。って、そんなシリーズはなかったか。

先日、新聞やテレビでもちょっと報道されていましたから、覚えておられる方もいらっしゃるでしょうか。「世間ずれ」の意味を、半分以上の人が「世の中の考えから外れている」と解しているという話。

文化庁が「国語に関する世論調査」をもとに製作している動画シリーズ「ことば食堂へようこそ!」。 YouTubeの文部科学省公式チャンネルMEXTchannelで視聴できます。

これは文化庁が毎年実施している「国語に関する世論調査」〔注1〕の結果報告を受けての報道でした。だから毎年この時期になると、こんなような話が出てくるんですよね。

この調査は、文化庁が「国語施策の立案に資するとともに、国民の国語に関する興味・関心を喚起する」ために行っているもの、だそうです。喚起されようじゃありませんか。

慣用句以外の調査項目で私の目を引いたのは、敬語の「本来的でない」使い方に対する違和感が年々高まっていること。たとえば「先生、こちらでお待ちしてください」(謙譲表現の「お待ちする」を尊敬表現と混用。本来の言い方は「こちらでお待ちになってください」など)が「気になる」人の割合は、1995年の56%から、2003年66%、2013年73%と上昇しています。これだけ急激な変化というのは、学校教育の影響というよりも、日本語に対する世の中の意識の高まりと見ていいんじゃないでしょうか。うれしいことです。

「日本語が乱れている。けしからん」派か、「言葉は変化するものだ。現実に従え」派か、どちらかと問われれば、私は後者だと思います。しかし、たとえ若い年齢層向けであっても、「世の中の考えから外れている」という意味で「世間ずれ」を使うことはないでしょうね。使うとしたら、旧来の意味で、しかもそのニュアンスが明白に分かる文脈で使います。言葉の変化を止めようとは思いませんが、変化というのはひとりひとりの使い方の総体として起こるものです。個人としては、主体的に選択しようではありませんか。そのためには、言葉がどう受け取られているかということに注意を向けている必要があるわけです。

翻訳者は、言葉を選ぶとき、読み手がその言葉をどう受け取るかを知っておく必要があります。「世間ずれ」の本来の使い方を知っているだけでは不十分で、「世間ずれ」を、現在どのくらいの人がどのように受け取るかを知っておかなければなりません。できれば、年齢層とか、想定読者層ごとに。もちろん、文化庁の調査は特殊な例で、何%かなんていう数字はふつう分かりません。でも、そういうことに敏感でなければならないってことです。

さて、実際、言葉の使い方はどのようにして変わっていくのでしょう。人はどうやって、一般とは異なる用法を身に付けていくのか。つまり誤解の構造です。これって実は、理解の構造とまったく同じではないか、というのが今回のテーマです。前置きが長くなりました。

誤解も理解の一種

実は、文化庁の報告書の「世間ずれ」の説明を見て、私はちょっと青ざめました。そこには、「辞書等で本来の意味とされている」説明として、「世間を渡ってずる賢くなっている」と書いてあったのです。え、私、間違ってた?

私のイメージでは、ずる賢い、まではいかなくても、「世間に揉まれて、ずる賢さを否定しないようになった」程度の人も、十分「世間ずれ」の範疇に入っていたのです。「ずる賢い」はかなり否定的な言葉ですが、「世間ずれ」はそこまで否定的な人格評価ではないと思っていました。もちろん褒め言葉とも思いませんが。

でも、辞書を見ると、「ずる賢い」とか「悪賢い」とか書いてあります。思い返してみても、私が辞書で「世間ずれ」を引くのは、たぶんこれが生まれて初めてです。じゃあ、私はどうやって「世間ずれ」の意味を知った(つもりになっていた)のか?

おそらく、本で読んだり、テレビやラジオで聞いたりしたものから「推測」してきたわけです。この文脈で使われているのなら、こういう意味で、こういうニュアンスに違いない、と。「世間擦れ」と、漢字で見たこともあったでしょう。言葉を覚えていく過程というのは、そういうものじゃないでしょうか。学校の授業で国語辞典を引いて覚える言葉なんて、ほんの一握りにすぎません。

推測していた意味と合わない用例と出会ったときは、推測を修正したり、辞書を引いて確かめたりします。でも、間違った推測がたまたま多くの用例に当てはまってしまうケースもあるんです。実際私はずいぶん長い間、そう、たぶん中学生から社会人になるまで、「とみに」という副詞は「非常に」の意味だと思い込んでいました。初めて目にしたのは北杜夫のエッセイだったはずです。文章は覚えていませんが、音の響きが面白い言葉だなと思ったのは覚えています。

コーパス〔注2〕から用例を拾ってみましょう。「教育の重要性に関する認識は最近とみに高まっており」「その種のトラブルが最近とみに増えている」「軍隊の士気はとみに衰えた」。ね。すべて、「非常に」でも意味は通じるわけです。(正解は「急に」、「にわかに」の意味。)

これに気づいたときはショックでしたね。でも、自然な言葉の覚え方がこういうものである以上、たまたま目にした用例にしか当てはまらない特殊な推測をしてしまう(要するに間違って覚えてしまう)ということは起こり得ます。

「世間ずれ」で言えば、擦れかズレか、どちらの意味の用例を最初に目にするか、出会う頻度はどうか、文脈がはっきりしているか、そういったいろいろな要因が絡み合って、その人の「世間ずれ」認識が出来上がっていくわけです。基本的には、片方がちょっと優勢になれば、それが世間にどんどん広がっていく。でも、「こちらでお待ちしてください」の例のように、使い方が突出すると逆に「間違い」意識が広がって元に戻っていったりする。いわゆる「動的平衡」状態とでも言いましょうか。

だから、繰り返しになりますが、私たち言葉を扱う者はそういう動きに目を向けていなければいけませんし、また、どちらを使うか自分で選択することで、たとえわずかでも、この生きて動く言葉の世界に参加することができるのです。

個人的に最近気になっているのは、「~しにくい」より「~しずらい」が増えている傾向と、「一戸建て」=「一軒家」の認識ですかね。調べるといろいろ面白いですよ。

最後に、最近たまたま目にした「世間ずれ」の用例をひとつ。宮部みゆきさんです(ドラマ化されると、つい原作を読み直してしまう)。お民と伊兵衛(おちかを引き取った叔父夫婦)は、おちかを「ずる賢い」と評していると思われますか?

 そのことなら、おちかも考えていた。 「嫉妬(やきもち)の焼き合いのせいですね?」
 たとえば、お路がお累とお梅の母子を妬んだ気持ちは、そっくりそのままお路とお梅を妬むお累の気持ちにひっくり返すことができる。お梅は実の母のわたしより継母の方が好きなんだろうか、と。 ……(略)……
 お民はまじまじとおちかを見つめた。
「ねえ、あなた」
 おちかに目を据えたまま、伊兵衛の手を取る。
「うちのおちかは、短いあいだにずいぶんと世間ずれしてきましたよ」
「うむ、大したものだ」
 お民に手を預けて、伊兵衛は笑い出した。おちかはけっこう、後ろめたい。

(宮部みゆき『あんじゅう』第二話「藪から千本」)

(2014.10)

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