セネガル通信

第9回 パリの休日(続)

水道の水――おいしいか、おいしくないかは別として――を、いざとなればそのまま飲んでしまうこともできるパリに着いたら、私の気分は、なんとなくタガがはずれたように、ボワ~ンとしてしまった。

美しい建物、庭、噴水、ベンチ・・・これも「パリの休日」ならでは

だから、久し振りに大好きな“パリの”バゲットを買って、道を歩きながらその先端をちぎって口に放り込んでしまったりもした。
 40年前、パン屋のおばちゃん(不思議なことに、おいしいパン屋さんの売り子はほとんどが年配女性!)は、バゲットを“裸で”よこした。20年前、20センチ四方くらいの小さな紙切れを使って、「手では直接触っていませんよ」と言わんばかりに渡してくれるようになった。そして今は、半本サイズのバゲット用紙袋に入れるか、4-50センチ四方くらいの大きな紙で、バゲットの真ん中あたりをくるくるっと包んでくれるというのが、ほとんどのパン屋さんにおけるバゲットの売り方だ。
 フランス人の「衛生観念」の変遷を思い出しながらも、指先を消毒もせずにいられることを私は充分に楽しんだ。なんといったって、焼きたてのバゲットのいい香りをかいで、かじらずにいられる人などいるわけがない!!

ところが、休暇の2日目に、いやでもアフリカを思い出させるニュースが飛び込んできた。
 「セネガルでもエボラ患者」

セネガルのエボラ騒動の“終結宣言”9月11日付ソレイユ紙の一面に(回復したギニア大学生は数日後に空路送還)

今年の初めにギニアで始まったエボラ出血熱の流行が、夏になって(季節が関係するのかどうかは知りませんが)再燃。ウィルスはじわりじわりと勢力をのばし、シエラレオネ、リベリアと広がっていた。
 しかし、セネガルは、ギニアとは国境をほんの少し共有するだけであり、広がり方もなんとなく“反対方面”だったこともあって、あまり心配もしていなかった。
 セネガルのマスメディアは、しきりと「除菌」「手の洗浄」を訴えているが、「このさい衛生管理を徹底させるつもりね。エボラウィルス自体が石鹸くらいで死ぬわけでもあるまいし」と、流行自体については重く考えていなかった。

20年ほど前だろうか、コンゴ民主共和国(当時はザイール)で何回目かの流行があった時、私はこの病気の存在を知った。《国境なき医師団-日本》の広報に携わっていたからだ。 致死率の異常なほどに高いこの病気のことを、私としては「一大事」として発表したけれど、国際社会はあまり関心を持ってくれなかった(日本社会に至っては、どこまでニュースでとりあげてくれただろう??)。
 とはいうものの、当時私が医師団のレポートから得たつたない知識では、「非常に特殊な伝染病であって、感染経路は限定的。いたずらに心配すべきではない」であったから、この春も、一応冷静に反応しているつもりではあった。

ただ、今回はいけない。なんといっても、我が愛するセネガルでの出来事だ。ぼわ~んと夢心地だったのがいっぺんに覚めてしまった。

パリ市庁舎での展覧会

セネガルで発症したのは、ギニアからやってきた大学生だそうで、それを知った時に最初に思い浮かんだことは、「だからもっと早い時期に国境を閉鎖すべきだったのに」というセネガル政府の不手際(というより、不運)と、「国際社会でこれほど騒がれている時期に、知識人であるべき大学生が、人の国に出かけてはいけない。しかも弟がこの病気で亡くなった直後になど!」ということだった。
 こんなふうにイライラの矛先を“外国人”に向けようとして、はた、と思いついた。 もしかしたら彼は、家族の何人かを失った今、ダカールにさえ行けば、自分だけは助かるかもしれない、と考えたのかもしれない。
 住み始めて少しずつ分かってきたのだが、ダカールはやはりサブサハラでは有数の大都市だ。近隣諸国にとっては憧れの街なのだ。しかも、ギニア人は、民族的な親近感もあるのかなんのくったくもなく我も我もとダカールへと押し寄せる。いざとなれば歩いてだって入って来れる。いざとならずとも、マリやモーリタニアから、羊を連れて移動してくる遊牧民がたくさんいる。日本のような島国では想像もつかない地理的民族的環境を改めて認識した。

メトロの《市庁舎駅》の通路で、偶然発見した記念パネル 地下鉄従業員3000人が8月16日にストを決行、ナチス占領下のパリの都市機能を麻痺させたことが解放への口火を切った。

ところで、休暇中、エボラのことばかりを考えていたわけでは、もちろん、ない。
 折しも8月25日に《解放70周年》を迎えたパリでは、カルナバレ博物館や市庁舎で、それにまつわる記録展覧会が行われていて、そこに行くことも目的の一つだった。
 ナチスドイツにフランスの北半分が占領され、パリの街がドイツ人将校たちのための街と化してしまったのが1940年の初夏。その後4年を経て、ある夏の日、パリは解放された。
 解放はもちろん市民を含めて多くの犠牲の上に成就したものである。解放のほんの数日前、市街戦を見据えて市内の要所要所にバリケードが作られたから、パリ名物であるパヴェと呼ばれる石畳の四角い石たちは、サンジェルマン大通り始めあちらこちらの路で、はがされて積み上げられた。

ヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の時代と同じように、パリの少年たちが必死にパヴェを運ぶ姿が写真に残っている。
 そして、“物”がなくなりつつあった占領下のパリからようやく抜け出す時が来て、少年たちが満面の笑みをもって素手に握っているのが、今も変わらぬ、あの長いバゲット。
 写真のタイトルは『“初めての白いパン”1944年8月24日』である。

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