Did you know that?

64.私が敬う人-②

小、中学生のころ「私の尊敬する人」という題で作文を書いた人は多いだろう。小学校低学年では「両親」と書く生徒も多かったが、高学年になるにつれ世の中には時代や世界をこえて人類に貢献してきた人たちがいると分かり、そのような人たちの名前が挙がるようになってきた。エジソン、アインシュタイン、日本人なら坂本龍馬、松下幸之助など。今は時代も変わり、スポーツ選手、歌手や俳優、漫画家、起業家等に変わっているかもしれない。

以前、私が教えている日本人学校の中学生に「尊敬する人」という作文課題を出したことがあった。ところが、尊敬する人を「お母さん、母」と答えた生徒が多かったのには驚いた。理由も「おいしい食事を作ってくれるから」、「宿題を手伝ってくれるから」等々、しかし「テニスを頑張っているから」と書いた作文には、正直言って失望した。アメリカに住むという環境が母親を特別な存在とさせるのかと思ったが、理由は分からない。

さて、私の母は1月に87歳の誕生日を迎える。4年程前に「狭心症」と「鬱」を患い、今も入退院を繰り返している。どうして鬱を患ったか定かではないが、狭心症の発作を心配したのと私の姉が手術を受けることが重なり、極度に案じたのが大きな原因だったようだ。

母が父の元に嫁いできたのは、60数年程前のことである。当時父の祖父母、父母、弟、それに住み込みの使用人が4、5人いた。農家の長男の嫁とはいえ、大家族の中での若嫁の生活は大変だったと思う。4人の女の子が生まれた。跡継ぎの長男を産むまではと産み続けたのだろう。5番目に待望の長男が産まれた。

長男を生んだ後しばらくして、母は過労が元で入院していた。一時帰宅を許され帰宅していた日、長男は風邪をこじらせ、父の友人である町医者にかかっていた。母は、息子の様子が普通の風邪と違うようなのですぐに大きな病院に連れていってほしいと頼んだ。しかし、医者は「もう一日様子をみましょう」と言った。翌朝、長男は息を引き取っていた。11ヶ月だった……。母の後悔と嘆きは、子供の私にも痛い程わかった。

母は、暫くは寝込み、その後も歩くこともままならず、5歩程歩いては立っていられずしゃがみ込み泣いた。しばらくすると気を取り直し立ち上がるのだが、また10歩も歩かないうちに座り込んで泣いた。私は、ただ母の側で母が泣き止むのを待ち、言葉さえかけられず立ち尽くしたのを今でも覚えている。

しかし、10歳を頭にいる4人の娘も育てなければならない。母は悲しみを心に秘めたまま生きる力を求めた。そして当時の女性としては珍しかった自動車の運転免許を取るために教習所に通い始めた。母の世界は自動車を運転することにより広がり、少しずつ精神を立て直していった。

父は一時県庁に勤めていた。岡山県に転勤という辞令が出たとき、母に相談した。父は、大家族の後継者である長男と言う生活を一時離れ、自分たち夫婦と子供たちだけで暮らしたいと思ったのかもしれない。母の返事は、
 「私は妻でもありながら、この家に義祖父母、義父母、使用人たちの面倒をみるために長男の嫁として嫁いできました。この家を出ていく訳にはいきません」
 父は転勤を諦め、その後県庁も辞め農業に従事することにした。

我が家には、私が10歳ぐらいになるまで、男女の住み込みの使用人がいた。天草からの若い人たちが多かった。日本経済が急激に発展し始めた頃、このように出稼ぎで農業に従事する人は次第にいなくなった。
 その後、母は知人から、父親がまともな仕事に就けずに生活に困っている家族がいるので、仕事を手伝わせてどうにか助けてもらえないかと頼まれた。母は、この家族を別棟に住まわせることにした。二人の子供たちはまだ幼く、少し知的障害があった母親の子育てを手伝いながら、父親に農作業を手伝ってもらうことにした。この家族は、結局私が大学を終えるぐらいまで我が家の別棟に住んでいた。しかし、人間分からないものである。この父親は、母にとって母の苦労を最も理解し黙って愚痴を聞いてくれ、いつも精神的に助けてくれる人となった。

母は、このような大家族の状況の中でも、父の姉の子供である姪と甥を合計9年間育てた。田舎の大きな料亭に嫁いだ叔母は、自分の子供たちを熊本市内の中学、高校に行かせたかったため、母にその世話を頼んだのだった。私たちは従姉兄たちと6人兄妹のように育った。

父が造園業を始めた後、母の苦労は並大抵ではなかった。経済的にとても大変だったが、母は4人の娘を大学までいかせた。母はこれからの時代は、女も大学を出ていた方がいいと思ったらしい。母の母親が当時、「娘にあまり学問をさせると遠くに嫁に行ってしまうから、近くにおいておきたかったら、大学までいかせない方がいい」と助言した。

その後、祖母が言ったことは事実となった。次女の私はアメリカに住み、3女は東京、4女は今ベルギーに住んでいるが、アメリカ、ロシアにも住んだ。遠いところへ嫁に行ってしまった……。
 しかし、母は、アメリカに3度、ヨーロッパに2度行き、ヨーロッパでは、ベルギーの妹家族と3女の家族と一緒にあちこち旅行した。

熊本弁の日本語しか話せない母は、訪れた外国の地でも、人種等関係ないかのように接する。ベルギーの妹のお隣さんは、母がゴミ出しのことで迷惑をかけたと身振り手振り日本語で謝ったところ、母のことが大好きになり夫婦でハグしてきたらしい。母は腰が抜けそうなぐらい驚いたそうだ。アメリカでも、ご近所様やスーパーの店員にでもニコニコと挨拶し、何かしてくれると嬉しそうにお礼を言っていた。

ベルギーの妹は年に2度、私は年に2、3度実家に帰る。母は、「3人の娘たちは遠くに嫁いだが、よく帰ってきてくれる。それに4人娘のどのダンナさんもよい人で、娘たちと孫たちを大事にしてくれている。親としてこれほど安心なことはない」と言う。
(参照:第1回「母へ」こちらをクリック!)

母は、父に言ったように曾祖母を看取った後、曾祖父が96歳で他界するまで面倒を見た。中風を煩った祖父を長年看病し、祖母は85歳で亡くなった。同じころ自分を可愛がってくれた叔母が近所の老人病院に入院した。この叔母は、お寺に嫁いだが、嫁と折り合いが悪く、嫁は具合が悪くなった叔母を病院に入れ、見舞いにも行かなければ家にも戻さなかった。母は、この叔母を可哀想に思い毎週見舞い、洗濯物をして届け、亡くなるまで何年も病院に通い続けた。

私が中学生の頃だっただろうか、母の苦労が私にも分かるようになった時、私は母に聞いた。
 「お母さんはどうして自分の身体を酷使し、苦労ばかりしているとね?お金が足りないなら、土地はあるのだから売って楽をしたらいい。苦労ばかりしているお母さんを見たくない……」
 母は答えた。
 「我が家の土地は、ご先祖様が苦労して代々受け継いで来られたもの。私が自分で買った土地ならすぐにでも売る。しかし、ご先祖様の苦労のお蔭でこのように暮らしていける。私の身体が続く限りは自分でお金を稼いでやっていくだけ」

1980年代に入ると、熊本市内郊外の我が家のまわりも急激に人口が増えていった。小学校にはプレハブの校舎が建てられ、急場を凌いでいた。しかし、中学校は数年後を見据えるとどうしても生徒が入りきれない。新しい学校が必要となる。建設用地が捜し求められた。中学校の建設用地には校舎ばかりでなく野球等ができる広い敷地が必要となってくる。しかし、熊本市近郊にまとまった土地はなかなかないらしく、我が家とその他数軒の持ち主の土地を合わせた広さが候補にあがった。母が還暦を迎える前のことだ。
 父母は土地を市に売ることにした。母が言った。  「ご先祖様も土地を学校建設のために売るのであれば、文句は言われないだろう。将来を支える子供たちのために使ってもらえるなら本望だ」と。

我が家のすぐ側に作られた中学校

土地を売った後、母がまずやったことは、仏間にある仏壇を京都に送り、修復し塗り替えてもらったことだった。ご先祖様にご報告し恩返したかったようだ。美しく塗り替えられ戻ってきた仏壇をとても喜んだ。

母の特技は習字であり、墓石の文字を頼まれる程美しい字を書く。絵も描き、編み物も裁縫もうまい才能豊かな人だ。しかし、決して自慢することもなく控えめだった。そして家族のため、親戚、友人のために骨惜しみせず、いつも一生懸命尽くし働いた。

今我が家では、長女である姉が婿養子を迎え跡取りとなり、父母と一緒に住んでいる。病気の母の面倒を一生懸命見ているのは姉の優しい長女である。母は、病気で入退院を繰り返しているが、夫である父と姉家族と住み、皆に愛され生きている。

お母さん、あなたは、言葉では言い尽くせない程多くのことを私たちに教えてくれました。人生のいろいろな困難を乗り越え、家族ばかりでなく、自分が関わってきた多くの人たちに愛情を注ぎ助けてきたあなたを、私は心から敬っています。

母の好きな短歌で、随分前に、母が私に小包を送るとき書いて入れてくれていた一首。先日、偶然古い手帳の中からでてきました:

 《菅原道真》              

こちふかば 匂いおこせよ 梅の花
 主なしとて 春を忘るな

87歳の誕生日、おめでとうございます!



中学校の側には我が家の竹林がある。以前、近所の人が、「お宅の竹林に朝早く行って竹の子を取る人がたくさんいるので、見張りに行った方がいいですよ」と忠告されたことがあった。父は「な〜に、どれだけ竹の子を盗っても山ごと持っていきはせんから、取りたいだけ取って行け」と言ったそうだ。

父母は、現在その竹林を小学校と中学校の側にあるのを理由に、無料で(水道料金だけもらっているらしい)使わせている。この竹林は、子供たちと保護者たち、また地域の人たちによって、数年を掛け子供たちが楽しめる「プレイパーク」 に作り上げられた。

子供たちは、学校の横で自然にふれ、いろいろなものを工夫し作り、春は竹の子を掘り、夏には竹を切って素麺流しをし、石焼釜でパンを焼いたりするそうだ。

今この竹林が、多くの子供たちや家族の楽しむ場所となり、地域の憩いの場となっているのは嬉しいものである。 父母の寛大な心を素晴らしいと思っている。秋には、この場所に仮設の舞台が作られ、屋外コンサート会場になる。


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