セネガル通信

第31回 亡命(前編)

公邸2階の、私たちのアパルトマンには書斎がある。書斎には大きな机が二つあり、大きいほうが私のもの。昼間、庭仕事で外に出る時以外は、たいてい机の前に座っている。
 そこから見て左手にある大きな窓は、よほど暑くない限りいつも開け放たれて、私は仕事をしながら庭の気配を感じることができる。鳥のさえずりや庭師の足音や箒の音…がBGMである。
 机についている時は我が家と隣家のマンゴーの木しか見えないのだが、窓の所まで行けばその先に隣家との境界の塀や隣家の屋上が見える。屋上とは言っても、建物の屋根の部分が平らだというだけでそこに人が上がっていることはまずない。
 でも、猫や鳥が時々やって来る。屋上から塀に移ってこちらの庭に入って来る猫たちの人相(猫相?)を見ておくことも大切なので――それはほとんどが牡の野良ちゃんたちで、我が日本大使公邸のアイドル猫、ママンとフィーユの天敵なのだ――時々私は机から立って窓辺に近づいて外を“チェック”する。

夫が、「あ、鳥だよ、あの鳥」と大きな声を出したのは土曜日の朝だった。
「何言ってるの? 鳥ぐらいいるわよ、いつだって」と私が机に向かったままで答えると、さらに彼は興奮して叫んだ。
「鳥だよ、いや、孔雀! テオ達の孔雀だよ!!」

隣家の屋上の端の桟の上に、コバルト色の美しい牡の孔雀が立って、長い首の上の小さな顔をきょときょとさせながら周囲を見ていた。ちょうどこちらのほうに体を向けていたので真正面から彼を見ることになった。
 駐セネガルオランダ大使であるテオとアンネ夫妻に飼われている孔雀は、いつも頭をツンと上げ、美しい尾羽を引きずりながら、オランダ公邸の庭を優雅に散歩している。そういう横からの姿ばかりを見知っていたので、少し小さく感じられた。
「あれ?違うかな?」「でもここらに孔雀がそうたくさんいるわけがない」
 私は、大急ぎでアンネの携帯に電話した。
「ねぇ、つかぬ事を伺いますけれど、お宅の孔雀君はいる?」
「いるわよ~」とアンネは答えつつも、私の説明を聞きながら、「ちょっと心配。ついさっきまでいたのは知ってるのだけど…調べてみるわ」と言った。私は、日本公邸の隣家、オランダ公邸にとってははす向かいにあたる建物の屋上の“現状”をつぶさに伝えた。

電話を切ってからも、孔雀が気になって、私は5分おきくらいに机から窓辺に行っては、隣家を眺めた。孔雀が屋上のへりの部分をあちらにこちらに歩きながら時々下をのぞくようなそぶりをするのを眺め、「あぁ、まだいる。よかった。もうしばらくそこにいてね」と思っていた。
 しかし、何回目かに窓辺に立った時、孔雀は姿を消していた。代わりに私の目に入ったのは、屋上で我が公邸の方を呆然と眺める警備会社のガードマンの姿だった。

アンネから電話が入ったのはその後すぐのこと。「孔雀が飛んじゃって、今はお宅の屋根の上にいるのだけれど、屋根に上ることはできるかしら?」
「どこから上がるのかはわからないけれど、以前、営繕の職員がのぼって避雷針を直しているのを見たことがあるわ。ちょっと待って。大使館の営繕と警備の電話番号を教えるわ」

孔雀が屋上から消えた時には少しがっかりしたのだが、私の頭上にいると知り、がぜん私は張り切った。机で仕事をしている場合ではない。庭に出てみなければ、と思う間もなく、また電話が入った。

「ちづこさん、私、今、お宅の公邸にお邪魔しているの。孔雀が屋根から落りたのよ。今はお宅の庭をプールに向かって歩いているわ」
 私は電話を片手に書斎から寝室へと走った。寝室の窓からプールサイドをゆっくり散歩する孔雀と、5メートルほど後ろを静かについていくテオの姿が見えた。

こうなったら、書斎の机についている場合じゃない。
 私はカメラを持って(!)大急ぎで庭に降りた。偉そうに「取材」と言いたいが、野次馬そのものである。
 下に降りた時には、孔雀はすでにプールをすぎて公邸別棟の裏の辺りまで来ていたらしい。テオとアンネが裏の通路のあっちとこっちに立っていた。 「孔雀は?」
「今、あの茂みの中で休んでいる」
 いつもオランダ公邸で静かに暮らしているのだから、突然の別世界への大旅行できっとくたびれてしまったのだろう、生垣の下からブルーの長い尾がのぞいていた。
 テオによれば、我が日本公邸の庭に飛び降りてくれたのはもっけの幸い、鳥の専門家の友人がもうすぐ網を持って来てくれる、そうすれば捕獲できるだろう、とのことだった。

これで一安心。あとは、専門家を待つまでだ、と思いながら、茂みでかくれんぼする孔雀をどうにかカメラに納めたいとパシャパシャやっていると…
 なんと、フィーユが遠くからこちらに向かって歩いてくるではないか! まずい!!
 フィーユはおそらく私の姿を見つけたに違いない。甘えん坊の彼女は、私が庭に出ていることに気づいたら、必ず、身体を“スリスリ”しにやって来るのだ。
 フィーユが孔雀の植え込みに来る前に回避させようと、私は庭に戻って別棟のもう一方の端へと急いだ。だが、時すでに遅し、フィーユは別棟の前をそのまま植え込みの辺りまで進んでしまっていた。

とりあえず私は、彼女をその場から立ち去らせようと「フィーユ! こっちよ。私はここよ」と呼んだけれど、その声は届かなかったのか、あるいは珍しい客人に気づいてしまったのか、彼女は止まったまま微動だにしなかった。(つづく)

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