Did you know that?

75.ドナルド•キーン先生のこと

私が初めてドナルド•キーン先生にお会いしたのは、もう30年以上前のことである。

夫と知り合い婚約中だったとき、夫は是非キーン先生に私を紹介したいと、何かの集まりの時に連れて行ってくれた。キーン先生は、コロンビア大学での夫の博士論文の指導教授であった。夫は、先生を生涯の「恩師」と仰ぎ尊敬していた。先生は、当時日本とニューヨークに半年ずつぐらい住んでおられたので、夫は、東京に滞在中は東京で、ニューヨークに住んでおられるときは先生のアパートにご挨拶に伺っていた。

「ドナルド•キーン?」私は、読書は好きでよく本を読んでいた。しかし、「日本文学書」をどれほど読みましたか?と聞かれると恥ずかしい有様だったので、キーン先生の名前など存じ上げるべくもなく、どれほど偉大な方なのかなど考えてもいなかった。このときは、他に大勢の方もおられたので、一通りの挨拶をして失礼した。

その後結婚し、再び東京でご挨拶に伺う機会があった。ご自宅に伺うというので、私はその「偉大な」先生に何をお土産に持っていったらよいかほとほと困った。まだ新婚間もなく、アメリカに住み始めて1年も経っていなかったので、何が何だか、さ〜っぱりわかっていなかったのである。当時、アメリカのフルーツのおいしさを満喫していた私は、農園での「You Pick」に行き、いちごやブルーベリーなどのジャムを作って楽しんでいた。その年に作ったブルーベリージャムは特においしかったので、「豪華なお土産なんて準備できない。そうだ!このジャムをお土産にしよう」と決めた。
先生は、持って行った手作りジャムを喜んでくださった。

2年ほど経って、子供も生まれ、東京に戻る機会があったので、またキーン先生にご挨拶に伺うことになった。このとき何をお土産に持って行ったかは覚えていなかったが、キーン先生に会うと、先生は開口一番、
「寿美さん、この前お会いしたときいただいたブルーベリージャムは、今まで食べた中で、一番美味しかったですよ。ありがとう!」
と言われた。私は、先生は毎年数え切れないくらいたくさんの方にお会いされているだろうに、私の持って行った2年前のお土産まで思い出されるなんて、本当に、思いもかけないお礼の言葉が嬉しかった。しかし、この方はなんと記憶力のいい方なのだろうと感心した。また、私のようななんでも無い誰かの奥さんであっても、会った人の心を暖かく満たしてくれる方なのだと心底感動した。
 ただ、またブルーベリージャムを作って持って行かなかったことをちょっと後悔した••••••。

夫が教える大学では、定期的に学者や起業家、文化芸術関係の人たちを大学に招聘し、講演やワークショップを一般公開してきている。

結婚し、10数年経った頃だろうか、その頃は、私も何度もキーン先生にお会いし、先生の偉大さも優しさわかってきていた。私は夫に尋ねた。
「あなたは、自分の大学にいろいろな学者さんを世界中から招いて講演を企画しているのに、なぜキーン先生を呼ばないの?」
夫は答えた。
「キーン先生はあまりに偉大で高名すぎで、有名な大学や機関ばかりで講演されている。ポートランドのような田舎街の州立大学にきて『講演をしてください』というのは、ちょっと気がひけるんだよ」
私は言った。
「あ、そう、ふ〜ん。でも、先生はもう75歳を超えられているわよね。それこそ、いつどうなるかなんて人の運命わからないわよ。ポートランドが田舎だ、有名大学ではないだのなんのと言っている間に、先生はどんどん歳をとられるわよ。ポートランド州立大学だって、とっても立派な大学じゃない。特に日本語、文学、歴史や経済、あなたを含め素晴らしい教授人揃いよ。学生たちだって、頑張り屋さんが多いわ!私はすごいと思っているわよ。
 ず〜っと招待しないつもりなら構わないけれど、いつかきていただきたいと思っているなら、すぐに行動すべきよ。講演依頼を引き受けるかどうかは、先生の判断であって、あなたの問題ではないはずよ」

夫は、その後すぐにキーン先生に連絡をとり、講演の依頼をした。すぐに返事が来た。「喜んで伺います!」

最初の講演でキーン先生は、2回講演をされ、「源氏物語」と「三島由紀夫氏の思い出」について話してくださった。先生は、「源氏物語」の英訳本を初めて古本屋で見つけ、ほとんど“ただ”のような値段で買って読んだこと。これが日本文学への興味の持ち始めであったことを話された。偉大な日本文学者誕生の逸話である。また、三島由紀夫という作家がいかに天才作家であったか、長年の親しい友人関係を通して知り得た普段の何気ないエピソードを交えながら話をしてくださった。聴衆はその面白い話に魅了され、私自身は、三島由紀夫に違った観点から親しみを覚えるようになった。

あれからもう16年ほど経つだろうか。先生は、初めてポートランドに来られて以来、すっかりこの街とここに住む人々の優しさを気に入られ、講演を依頼するとすぐに了解の返事をくださり、5回ほど講演に来られている。

空港にお迎えに行くと、2度目から先生は私に、
「ただいま〜。また戻って来ました〜」と、ご挨拶されるようになった。それほど親しいわけでもよく会っているわけでもない私にさえ、このような言葉をかけてくださる先生に、私は夫と同じくらい尊敬の念を抱くようになった。文学者としてばかりでなく、人柄に対してでもある。

お忙しい先生は、日本から来られる時でも、ニューヨークから来られる時でも、講演当日を含め、長期で滞在されることは難しい。しかし、時にはオレゴンの自然を楽しみ、ポートランドの日本に関わる人たちとの交流を楽しまれた。

大学で招聘するため、人手が足りないのか、私が運転手になって先生の移動を頼まれることもあった。先生と個人的にお話しする機会を私はとても楽しんだ。話し方はいつも穏やかで、いかにこのポートランドが、街も人も素晴らしいか。また、大好きな「Powell’s Book Store-全米でいちばんの書籍所有量」(参照:43.書店の行方)があるから、ここに来るのは楽しみです」と言われる。

時折、ご自分が関わった日本の偉大な作家たちの話もしてくださった。もちろんたくさん出されているご自分の本や随筆などにも書かれていることだと思うが、実際ご自分の思い出を先生のお言葉で聞くと、それは命を吹き込まれた状況のように心に深く入って来るのである。

講演後、我が家に来ていただき小さな食事会をした時のことである。先生が永井荷風氏の自宅を初めて訪れられた時のことを話してくださった。
先生は、ゆっくりと楽しそうに、
「彼の家っていうのがね。もう、門から入ると草がボウボウ生えていてね。ボロ屋敷のようなところだったんですよ。玄関に入っても、ちっとも大作家の家って風格ではなくてね。上がらせてもらうと、これまた畳もブヨブヨしていてボロボロだったのです。それに、奥に通されて目に入った永井荷風という人が、いわば“汚い老人”という感じなんです。前歯がほとんどなくてね••••••。
 ところが、彼と話し始めて驚きました。彼の口から発せられる言葉に私は感動したのです。日本語の美しいこと!僕は、いろいろな日本の偉大な作家にも随分会いしましたが、彼の日本語は、日本で一番美しいと思いました」

キーン先生がお話ししてくださると、先生の話についつい引き込まれてしまう。先生は、必ずその話のダメな部分、嫌な部分など、基本的にネガティブなことから話し始められるという印象が私にはある。ついつい聞いている方は、そのネガティブな部分に興味深く入ってしまう。ところが、話のオチは、必ず人の話であればその方の良いところを、そして暗い話であれば、楽しく面白く終えられる。
先生と出会う人たちは、先生のそのような心温まる話し方に魅了されてきたのではないだろうか。それは多くの日本の著名な作家や偉大な方々も同じではなかっただろうか思った。

2012年、東日本大震災後、多くの在住外国人が原発事故後自国へ帰国する中、先生は日本に帰化されることを決断。そのことを日本のメディアを通じて発表された。その後、先生についてのテレビ番組も数多く放映され、先生は日本中で知られるようになられた。先生についてのドキュメンタリー番組で、先生への質問が出た。日本文学の権威であり、戦後、多くの日本の偉大な作家や文化人との交流をずっと続けてこられた先生に、
「日本に住まれ日本人と長い間関わってこられていますが、日本という国で一番素晴らしいと思われることはなんですか(はっきりとは思い出せないが、確かこのような質問だったと思う)」
と聞かれた。
私は、どの有名な作家の名前を言われるだろうか?どの文学作品だろうかと思った。

先生は静かに答えられた。
「そうですね。それは、私が戦後初めて長く日本に滞在し、京都に住んでいた時のことです。ある時急に雨が降ってきてね。人の家の軒先で雨宿りをしていたんですよ。するとね。しばらくして、その家の人が、そっと傘を差し出してくれたのです。私は、このような日本が大好きです」というようなことをおっしゃった。また、お住まいの近くに商店街があるが、アメリカから帰ってそこに買い物に行くと、必ず『お帰りなさい』という声がかかってくる。そんな優しい人達がいる日本が大好きです」と言われた。

日本文学でもなく、多くの著名人でもなく、すぐそばにいる普通の人々もこよなく愛される先生は素晴らしい!先生は、人をその名声や業績などで判断されるのではなく、人として接してくださる。その優しさに多くの人たちが魅了されているのだと思う。

夫は、キーン先生の天才的日本語能力について語るとき、
「キーン先生は、日本文学者である僕が日本語の本を1冊の読んでいる間に、日本語で本を1冊書かれるほどだ!!」

2012年、キーン先生は文楽座、義太夫三味線奏者である鶴澤浅造氏(キーン誠巳氏)を御養子として迎えられた。夫は、すぐに浅造先生とも意気投合し、日本に行くたびに時間を作って義太夫節の稽古に先生の家に行く。

昨年、夫は大学で学生英語歌舞伎「忠臣蔵–The Revenge of The 47 Loyal Samurai」の公演を行った。この歌舞伎上演は、夫の積年の夢であり、この公演が実現できるとわかった時、夫は、どうにかしてキーン先生と浅造先生にポートランドに来ていただきたいと思った。しかし、当時93歳になられる先生が、ポートランドに来ていただけるかどうかは全くわからなかった。キーン先生に公演を観に来ていただきたかった大きな理由は、先生が、「忠臣蔵」を初めて英語に翻訳された方だったからだ。また教え子として、この「忠臣蔵」を英語で上演までこぎつけたことを先生に是非観ていただきたかったからだった。(参照:707172–仮名手本「忠臣蔵公演」を終えて)。
先生は、来て観て、褒めてくださった!!その後のご自分の講演と浅造先生の古浄瑠璃公演終え、Powell Book Storeを満喫された後、ニューヨークへと旅立たれた。
夫は、公演後キーン先生と浅造先生との交流を数日間楽しむことができたことを喜び、ポートランドに来てくださったことに感謝した。

キーン先生と夫(写真:Chitose Nakagawa)


キーン先生、キーン誠巳先生と夫—昨年の「忠臣蔵」公演千秋楽(写真:Alex Madonik)

我が家では、夫が今年も大学で英語歌舞伎をするというので、またまた忙しい半年となった。泉鏡花の「天守物語」出版100年周年記念にあわせ、舞台化したいとのこと。また「傀儡師—かいらいし(人形遣い)」の2つを前半と後半に分け上演するという。

今年は、大学の関係で春学期の授業計画の中での公演となるため、昨年度の「忠臣蔵」と違い多くの制約が加わり、色々な面で苦労が多かった。しかし、清元の方、三味線の先生とお弟子さんも日本から来てくださり、打楽器の専門家、琴や琵琶も加わり、生演奏が昨年同様揃った。踊りもアメリカ人の素人に辛抱強く教える技術をもつ指導者に恵まれ、学生たちの頑張りで出来上がった。私は今年も衣装の担当をした。女性の役が多く鬘から衣装まで大変だったが、学生や友人たちのお陰で素晴らしいものを作り上げることができた。多くの観客に見ていただき、喜んでいただいた。
 今年のリンクは字幕付きなので、英語が分かりやすい。是非観ていただきたい。

「The Castle Tower-天守物語」
「The Puppeteer-傀儡師」

「天守物語」—女役が多かったため工夫した衣装や鬘(写真:Brian Albrecht)


「傀儡師」の中に「櫓お七」を追加した。元バレリーナのDevonが踊る「櫓お七」は圧巻だ(写真:Minh Ngo)


夫は、この公演に、できれば今年もキーン先生と浅造先生に観に来ていただきたいと思っていた。しかし、ちょうど同じ時期に浅造先生が義太夫を語られる「弘知法印御伝記」ロンドン公演のため、キーン先生も同行されることになり、来ていただくことができなかった。

「弘知法印御伝記」ロンドン公演案内:  

94歳になられた今も、文学者としてばかりでなく、戦争を経験したものとして、平和への思い、願いを語りつがれる先生の姿には、畏敬の念を感じる。

いつまでもお元気で「キーン節」で語られる先生のお言葉を聞き、書かれるものを読み続けたいものである。

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