パリ狂日本へ帰る

第1回 ふるさと

ダカールのスコール

それにしても、よくよく台風には苦しまされる2018年である。
 考えてみると、この10年、英国やセネガルで暮らしていたので、台風とは無縁だった。雨の多いロンドンで、時折とても風が強くてフラットの大きな窓ガラスの外に“真横に降る”雨を見たことはあったけれど。ダカールでは、雨季のスコールを何度か体験したけれど。
 これらは、“ほんの一瞬の我慢”で済むような規模だった。ある日南太平洋に生まれて、アジアの方に進路をとって、勢力を強めながらじわりじわりと近づいて、やがて日本列島をこてんぱんに叩きのめすような台風とは厳しさが違う。
 この夏の、被災地の水浸しになってしまった映像を見るにつけ、何とも言えない脱力感に襲われた。

そして地震。これも、この10年、無縁の世界だった。日本生まれの日本人なのだから、もちろん地震の事はよく知っている。「3.11」を体験していないので、偉そうなことは言えないけれど、我が家の床にピアノの脚跡が残っているのを人に見せながら、「このあたりは東西に揺れたのね。ほら15cmほどずれているでしょ」などと解説したりする。
 だからこそ地震のない国にいることの安心感は格別で、その昔、パリで子育てをしていた時に、夜、ベビーシッターに子供たちを預けて外出する際気がラクだったこともしばしば思い出す。
 いつもどこかで揺れているような日本列島の厳しさをなんとなく意識している。“慣れて”はいるけど、“馴染ん”じゃいないのだ。最近も夜中の零時過ぎくらい、ちょうど寝入りばなに、「緊急地震津波警報」とかで、暗い寝室の、夫と私の二つの携帯電話が急にとんでもない音を立て始めた時には、それこそ心臓がバクバクしてしまった。

水仙。長年放ったらかしだったけれど必ず2月に咲く。

植えた記憶はない。不在の間にどこからかやってきたらしい。アガパンサス。

庭の山桜が自慢である。夫が生まれた頃に両親が購入した東京中野の土地に私たちは今も住むが、おそらく、その時からこの桜の木はここに居た。
 両親の存命中に確かめたわけではないので山桜の正確な年齢は分からないのだが、夫の記憶の中にはいつの時代もこの山桜が存在する。私も結婚当初から庭の桜のことは大好きだった。
 その後、フランスで生まれた子供たちと家族4人で帰国して、新しく家を建て直した時も、いつも桜はあって、小学生の長男の遊び場でもあった。ご丁寧にも、彼はこの桜の木に登ってターザンごっこ(?)をしていてロープがはずれ、上の方の枝から落ちて「腕を骨折する」という思い出まで作った! それももう、25年以上前のことなのだが。
 桜の木の下には、子供たちが飼った、うさぎや亀やザリガニや金魚も眠っている。

いつの頃からか、山桜は根本のあたりから二股に分かれていた。去年本帰国して、太い幹に育ったのがふたつ、V字型に立っているのをまじまじと見つめた時、自分の記憶の中にはなかったあまりに大きい桜の根っこに何とも言えない感動を覚えた。しみじみと時の流れを感じた。

その山桜が病気になったとかで、左の方の幹は何か月か腹巻のようにぐるぐるとネットを巻き付けられていたのだが、植木屋さんの努力もむなしく、病状は悪化した。そして、今夏の暴風雨である。
 敷地から大きく路上にはみ出して、木の先の小枝たちは電線を潜り、跨ぎ、自在に伸びていたが、ざわざわと風に揺れれば電線にも触れる。病んだ大きな幹が道路側に倒れたら大変なことになる、と誰もが心配になった。

10月初めのある朝、植木屋さんが特別に手配したクレーンでやって来て、上のほうの小枝から少しずつ剪定していった。珍しく好天となったその日は、窓を大きく開け放していたから、植木屋さんたちの声が家の中までよく聞こえた。
 長年桜を見続けていた植木屋さんが、惜しみながら丁寧に切る枝を選んでいる。私も心の中で「ごめんね。長い間ありがとう」とつぶやいていた。
 お昼頃には、Vの字の左側がすっかりなくなって、直径50センチほどの切り株が残った。

ロンドンに住んでいた時に、あるオペラ歌手が、兎追いし…の『ふるさと』を、日本語で歌って聞かせてくれたことがあった。
 日本を離れて何年もたっていたし、私の年齢もあるし、「3.11」からは1-2年しか経っていなかったし……。
 オペラ歌手の日本語には外国人特有の訛りが少しあったけれど、言葉の一つ一つは絵となって私の中に浮かび上がり、そして深く心にしみわたった。涙が出た。

その時のことを、今年は何度となく思い出す。「帰って来たんだな」という気持ちがふつふつと湧き上がる。
 庭の山桜は半分になってしまったけれど、きっと来春もまた美しい花をつけるだろうし、切り株は、格好の椅子になるに違いない。

今年4月。見事な山桜に、一週間カーテンを開け放った。

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