Did you know that?

81. 人形(形代)

2009年3月3日の「ひな祭り」に際し、私はポートランド日本庭園( Portland Japanese Garden )から、ひな祭りに関した講演を庭園のボランティアの人たちにしてくれないかと頼まれた。庭園では、毎年2月中旬ぐらいから全段揃った雛人形が飾られ、来園者が見ることができる。また、ひな祭に関した行事も執り行われる。私は、日本庭園で着物や夫の日本伝統芸能に関わる衣装の講演を何度かしていたのと、当時庭園の教育振興の役員をしていた関係から、何の話す目処もないまま引き受けた。

ひな祭りについてほとんど何も知らなかった私は、人形の歴史から雛飾りの由来までいろいろ調べた。まず分かったことは、「人形」は「人の形」と漢字で書くが、昔は「形代—かたしろ」と書き「代わりの形」、つまり人の身代わりという意味があり、日本人の暮らしと深く関わってきたということだった。

講演用に作ったパワーポイント

人々は、古来より病気や災いを恐れ、神に祈って災厄、罪障などから逃れようとした。そして「形代」を作り、そこに宿る霊力で自然界の邪悪なものが人身に及ぶのを防ごうとした。人々が人形に託す思いには様々な期待があったようだ。

① 病気や災害から身を守ってほしい
② 子授けや安産の祈りを託す
③ 穀物や作物を鳥や害虫から守ってほしい
④ 人を呪詛する
など。

人形というと可愛いいものと思いがちだが、考えてみれば、「土偶」や「案山子」、呪詛の極み?五寸釘を打たれる「藁人形」だって人形だ。

講演用のパワーポイント

中国には、「曲水の宴」という3月3日に行われる行事がある。穢れを払い、不祥や悪霊を「盃」とともに川に流し、歌を詠んでお祓いをするというお祭りだ。これが5世紀ごろ日本に伝わり、人形に災厄を託す日本の習慣と一致して、川に人形を流す習慣として変化していったらしい。

   日本の流し雛

日本では、江戸中期頃から、公家や武士社会、裕福な庶民の女性が旅に出る、あるいは婚礼の嫁入りの時、人形を抱いて輿に乗る習慣ができてきた。これは、「道中での災いを人形に代わってもらおう」という親の願いからであった。「形代」である。その後は、婚礼の嫁入り道具に「ひいな人形」を入れるようになった。
 江戸時代末期から明治にかけて、雛飾りは内裏人形につきそう従者人形、嫁入り道具、小道具、段飾りなどの飾りが増え、現代に近い豪華なセットになっていったようだ。

私の長女が生まれた時、私の母がお祝いとして雛人形を買ってくれた。当時夫の仕事の関係で一年間東京に住んでいたので、一緒に雛飾りを選んだ。夫は、2、3段より、全段あるもののほうがすべての意味がわかっていいと言ったので、フルセットの雛飾りを買うことになった。雛飾りが送られてきて、3月3日の初節句は新宿早稲田の宿舎で祝った。

一年間の滞在を終え、荷物をまとめてアメリカに帰ることになった。もちろん雛飾りも持ち帰った。2つの大きな箱と飾り棚の箱とで大荷物になった。 船便で送った荷物は、アメリカについてから港湾局(Port of Portland)で税関の申告をしなければならなかった。
 税関では、この「Dolls -人形」と書いてある大きな3箱に疑問を持った。こんな大きな箱にどのような人形が入っているのか。商業用とは登録してない。個人の持ち物でも高級な遊び道具、おもちゃや人形などであれば課税の対象になるので、夫にいろいろ質問した。

夫は答えた。
「これは、日本の宗教儀式的な人形で、娘の健康と幸せを祈る意味で妻の両親から孫娘の誕生に合わせて送られたものです。ですから、美しい飾りの人形で値段も高いのです。娘はこの人形で遊ぶことは全くできません」というような説明をし、娘が写った雛人形の写真を見せた。宗教的なものに対しては税金がかからない。我が家の雛人形への課税は免れた。

早稲田の宿舎で撮った写真 10ヶ月の娘と母が送ってくれた雛人形 夫はこの写真を税関で見せた。

さて、我が家にとって2018年は、喜び悲しみを含めて行事が最も多かった年かもしれない。
  姪や甥が4人結婚し、私は3つの結婚式に出席するために日本に行った。甥の長男も生まれた。しかし、11月に一年余り闘病中であった父が逝去した。悲しい出来事ではあったが、妻や家族に見守られ、90年の生涯を全うできた父の人生は幸せであったと思う。
 その折、実家の跡取りである姉が、
「実は、今年が父の父つまり私たちの祖父の50回忌なの」と言った。もうそんなに経つのかと月日の流れの速さと、祖父のことを改めて思い出した。

明治生まれの祖父は、当時近隣の村に住む祖母を見初め、どうしても嫁に迎えたいと懇願し続け、やっと結婚できた。優しく美しい祖母を娶った祖父は、それは、それは祖母を大切にした。

しかし、祖父は、60代後半に中風(脳卒中)にかかり、右半身に麻痺が残った。歩くことはできたが右手足が不自由になり、祖母の手を借りざるを得なくなった。次第に昼間寝ていることが多くなった祖父は、夜中に目を覚まし、祖母が側にいるかどうかを確かめ、何かと用事を言いつけ自分の寂しさや不安を慰めてもらうようになった。それが8年ほど続いた。

祖父が次第に弱ってあまり動けなくなると、その傾向は顕著になり、自分が目覚めているときはいつも祖母を呼び、側にいるように要求するようになった。祖母は、次第に十分に眠る時間もなくなり、そのうちに睡眠障害で眠れなくなってきていた。

それがしばらく続いた後、祖母はとうとう意識朦朧となり、倒れてしまった。祖父は、呼んでも頼んでも自分のところに来ない妻を案じ、生きる気力がなくなった。そして、祖母が倒れて数日後他界した。祖母は、葬儀の間座ってはいたが、何が行われているのかわからない状態だった。

私の母は、舅である祖父が、あまりに祖母を愛していたので、きっとすぐに祖母をあの世に連れて行ってしまうのではないかと恐れた。母は情の深い人で、姑である祖母をとても大切にし、尊敬もしていた。母が苦しい時いつも助けてくれ、父の元に嫁いで以来同居し、苦楽を共にしてきた。

母は、祖父が亡くなる数日前から意識がほとんどなかった祖母を案じ、葬儀の段取りから祖母の世話までどうしたら良いものかと思ったに違いない。母は祖父が亡くなった時、父に熊本のデパートで一番大きな日本人形を買ってきてくれるように頼んだ。父は、母が何をするのか理解できていなかったのではないだろうか。父が50センチほどもある着物を着た日本人形を買って着た時、母はその人形を受けとり、あまり意識がなく寝ている祖母に抱かせた。

祖父の葬儀の日、母は、祖母に抱かせていた日本人形をとって棺の中の祖父の腕に抱かせた。そして、
「おじいさん、この可愛い人形はおばあさんの身代わりですよ。おじいさんと一緒に天国についていてくれるから、寂しくないですよ。決して、決してすぐにおばあさんを迎えに来ないでください」と懇願した。
 私は、人形がどのような顔で着物がどうだったかなどはっきり覚えていない。しかし、母が一生懸命棺の中の祖父に語りかける姿を、涙ながらに見ていたことを覚えている。

祖父のために買ってきた人形の写真はないが、多分このような人形だったと思う。Portland Japanese Garden 所蔵

その後、祖母は数ヶ月を経て徐々に元気を取り戻し、祖父の死後15年生きた。

元気になった祖母は、忙しい母の代わりに家のことを引き受け、私たち4人姉妹の世話をしてくれた。私の結婚を心配し、
「寿美、結婚はしたほうがよかよ。どこの人でもよか。住むのは東京でもよか。お金さえ持っていれば、いつでも帰ってこられるけんね。ばってん、アメリカはちょっと遠かね〜」といった。それは、祖母が亡くなる半年ほど前のことだった。

当時、私はアメリカに来る予定もなく、認知症が少し出初めていた祖母を「育ててもらったお礼」の意味もあり実家で世話をしていた。アメリカに来るのはそれから3年ほど経ってからである。祖母が私の結婚になぜアメリカを例に出したのか、今でも不思議だ。

祖母は手の器用な人であり、編み物が大好きだった。当時、キューピー人形に毛糸で洋服を編んであげるのが流行っていた。

キューピー(Kewpie)人形は、1909年にアメリカ人のイラストレーター、ローズ・オニール(Rose O’Neil)がキューピッドをモチーフに考案したキャラクターで、後に世界的に普及し、日本でも大人気になった。

祖母は、キューピーを何処の誰が考案したかなど全く知らなかっただろう。ただ可愛いキューピーに魅了され、服を編んであげるのが楽しくて仕方なかった。アメリカ生まれのキューピーは、意外にも祖母に生き甲斐を与えてくれていたようだ。時間があれば、古くて着なくなった家族のセーターをほどいていた。そしてその毛糸を使って、デザインや色合いを考え、すぐに作り上げてしまった。亡くなる直前までに多分100体以上もの人形に服を編んで着せたのではないだろうか。友人や近所の人にプレゼントし、喜ばれ、余生を楽しんだ。

我が家にも残っていて、私は1つもらってきた。青いパンツルックのキューピーちゃんは、私の大切な宝物(参照:不思議な拾い物)の「3人と1匹」の横で嬉しそうにしている。

私がアメリカ人と結婚したことを知らずに亡くなった祖母は、「なぜあの時寿美に、『アメリカはちょっと遠かね〜』と言ったのだろう〜」と思いながら、私が、祖母の作ったキューピー人形を大切にしているのを、祖父と一緒に天国から微笑んで見ていてくれているだろう。

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