コーヒーブレイクde翻訳
出版翻訳や、翻訳道場を始めとする翻訳指導など、日々の業務で感じたことをつづっています。
翻訳の「あとがき」考(16/03/24)
恩師の藤岡啓介先生著『翻訳者あとがき讃』が出ました。1915年の堺利彦訳『小櫻新吉』(だれ?と思ったら、ネットで調べてください。あ、そうなの、と驚くでしょう)、1927年の村岡花子訳『乞食と王子』に始まって、2010年の小野寺健訳『嵐が丘』、2014年の沓掛良彦訳『痴愚神礼賛』まで35点の「あとがき」が解説付きで収められています。わたしの大学の恩師、河野一郎先生の『カポーティ短篇集』もあります。

「あとがき」は、訳者がその作品をモノした経緯を記したり、歴史的社会的に内容を解説したりして、自由に書かれるものです。主に大学の先生方が翻訳をしていた時代には、啓蒙の意味を含めて、少々難しい解説風が多かった気がしています。文体もいかめしいものが多く、途中で読むのをやめた「あとがき」がどれほどあったことか。作品の性質にもよりますが、最近は難しい「あとがき」が減った気がします。翻訳の専門家が訳すことが多くなったからでしょうか。作品そのものに対する訳者自身の思い入れを語るケースがよく見られます。

自分で翻訳をするようになってからは、翻訳書は「あとがき」から読むようになりました。訳者の人となりを知って、訳者の文を綴る呼吸を知って、それから安心して本文を読む、というパターンです。一種のウォーミングアップです。ネタバレの恐れはありますが。

わたしが最近読んだ翻訳書の中で「あとがき」に鳥肌がたった作品は、『ストーナー』(東江一紀訳)です。作品の背景、作品が世に出る経緯など、解説に近い文が続きますが、次第に訳者の気持ちが解説の中に見えてきて、そのうちに解説を凌駕して、訳者の気持ちがあふれる文章で締めくくられます。(東江先生が亡くなったため)編集協力として名を連ねた翻訳者布施由紀子さんの名文に涙がでました。主人公ストーナーと東江先生が布施さんの中で重なっているようで、内容の濃さに負けないくらい濃い「あとがき」です。翻訳者は翻訳の能力だけでなく、自ら文をモノする能力を持たないと、読者を魅了することはできないのだ、と強く感じました。

わたしも「あとがき」を書いたことがありました。2冊目の翻訳書で書いた「あとがき」は、あとから読むと恥ずかしくて顔が赤くなるほど感情が先走っています。大好きだ~、嬉しい~と思いっきり叫んでいるような、中学生の作文のようなもの。3冊目の翻訳書では、その反省を踏まえて、地に足の着いた、どちらかというと定番に近い「あとがき」を書きました。可もなく不可もなく、といった代物です。次に書く機会があったら(あるといいのだけれど)、どんなにその作品が素晴らしいかを、感情を抑制してじっくり丁寧に書いてみたいと思います。

こんな本も。「すばらしき出鱈目小説」と題した「訳者あとがき」。読者としての所感と訳者としての所感をまじえた、まじめで可笑しな「あとがき」です。

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