コーヒーブレイクde翻訳
出版翻訳や、翻訳道場を始めとする翻訳指導など、日々の業務で感じたことをつづっています。
肯定表現と否定表現(16/11/08)
今年の5月から7月にかけて、恩師の河野一郎先生の勉強会に参加していましたが、9月から「後期授業」ということで、再び勉強会に参加しています。毎回課題の添削を受けて、心内でガッツポーズすることもあれば、がっくり肩を落とすこともあり、なかなか刺激的な時間を過ごしています。

そんな中で、さんざん悩んだ末に決めた訳に思いのほか良い評価をもらったことがありました。作品は聴覚障害をもっている女性のエッセーで、小学校で聴覚テストを受けたとき、音が聞こえるかどうか周囲の大人たちが彼女に注目している場面。原文は:

Sometimes I couldn’t tell whether I heard the squeaks or just imagined them, but I liked being the center of attention.

but以下のI liked being the center of attentionは、直訳すれば、「とにかく、注目の的であることは好きだった」となります。わたしが悩んだのはlikedをそのまま「好きだった」としてもいいかどうか。間違いではありませんが、日本語として、どうも据わりが悪い。訳文を最初から日本語として読んだとき、「きらいではなかった」と直したくなりました。

「好き」ははっきりした肯定表現。「嫌い」も、その対極の肯定表現。「きらいではなかった」は「はっきり好きとは言えないけれど、嫌いじゃない」という曖昧な意味合いを持ちますが、一方で「好き」とはっきり言うのははばかれるので、「嫌い」を否定して「好き」を表している、とも考えられます。でもこれ、日本語としての据わりはいいけれど、翻訳としてそういう曖昧な表現を使っていいのかしら。

ここで、日本語には否定表現(または禁止表現)の決まり文句がよく使われることを思い出しました。これは授業で出た話題ですが、たとえば、建物や店舗で見かける「従業員以外立ち入り禁止」。最近ではSTAFF ONLYという英語表示も見られるようになりました。また、「お手を触れないようにお願いします」「手を触れるな」はHANDS OFF、「芝生に入るべからず」はKEEP OFF THE GRASSなど、日本語では「~するな」「○○禁止」とするところを、英語では「~しなさい」風に肯定文の表現を用いています。

であるならば、わたしが悩んだI liked…は、文脈上、または文章の流れから見て、「…嫌いではない」としてもいいのではないか、と考えたのです。実際に提出した訳文は「注目されるのはいやではなかった」で、お褒めの言葉をいただきました。

翻訳は、「原文に忠実に」、「原文に寄り添って」、「原文通りに」訳すべし(講師によって表現は異なりますが)が原則。だから、I likedは「好きだった」となりますが、これを一ひねりして、日本語らしい否定表現を用いたら、文がぐっと身近なものになりました。日本語の特徴の一つでもある否定表現――今まで考えてもみませんでしたが――を意識すると、翻訳の引き出しが増えるかもしれません。一つの方法として覚えておこうと思います。

アマゾンから届くのを待っている本。謎や神話という説明に加えて、素敵な絵に惹かれました。

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