岩坂彰の部屋

第28回 素養としての翻訳

岩坂彰
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あけましておめでとうございます。2011年、こんな数字の並びは、私にとってはもはやSFに出てくる近未来の年に思えます。ちょうど100年前の1911年1月、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が邦訳され、西田幾多郎の『善の研究』が発表されていますが、そのほうが身近に感じられるくらい。価値観の対立をめぐる議論はこの100年で深まったのでしょうか。サンデル教授の講義を見るかぎり、あまりそうとも思えませんね。子供たちは、前世代の深遠な思想を受け継ぐところから出発したりはしないのですから、まあ、当然なのですが。


講演のようす。話しているときは気がつかなかったけど、後ろの人にもスライドが見えるように、天井モニターがあったんですね。

昨年末、30歳年下の大学生たち、つまり、まさに「次の世代」にあたる人たちの前で話をする機会を得ました。以前、当コラムで『翻訳行為と異文化間コミュニケーション』という本を紹介しましたが、その著者の藤濤文子さんが教えておられる神戸大学国際文化学部で講演を行ったのです[注1]。演題は「出版翻訳の現場――翻訳のフィルターと翻訳者の責任」。聴講者は藤濤さんの翻訳コースの受講者が中心でした。

この翻訳コースは、翻訳者を養成するための授業ではないとのことで、会場で尋ねてみたところ、将来翻訳をやってみたいと手を挙げた人は聴講者の4分の1くらいでした。では何のコースかというと、コミュニケーション論なのですね。翻訳を異文化間コミュニケーション行為の一つとして捉える観点から、過去から現在に至る翻訳理論が教えられています。私もその線に沿って、実際の翻訳における一つ一つの訳語や表現の選択が、翻訳者の考え方や姿勢と不可分の関係にあるということを、明示化、等価、機能主義といった理論に絡めながら具体的に話してきました。

話のポイントは、原著者と翻訳者(厳密に言うと翻訳企画者と翻訳者)には、それぞれにそれぞれの立場と意図と目的があり、翻訳表現の決定は、そのような複数の意図の関係のなかで行われるということ、そして、そのような関係のなかで翻訳者としての立場を考えることのうちに、翻訳者の責任があるということです。

私としては、この授業が翻訳者の養成ではないということで、そういう面でのプレッシャーを感じずにすんだのがありがたかったです。以前、翻訳学校で教えていたときには、いろいろ努力してもらったところで、みんながプロになれるわけではないことがはじめから分かっているという矛盾に心苦しさを感じたものですが、このような大学の講座では、未来が開かれています。学生たちがこれからどのような仕事をしていくにせよ、翻訳を異文化間コミュニケーションとして見る姿勢は、必ず生きてくるに違いありません。

講演で使ったパワーポイント・スライドの一部
講演で使ったパワーポイント・スライドの一部。このコラムでも昔紹介したプリズムのイメージです。

講演の翌週、学生たちが書いた感想の束がどっさり届きました。みなさん、それぞれの関心に応じて感じ取ったものはさまざまなようでしたし、私の話し下手のせいで誤解されている部分も見受けられましたが、少なくとも、「翻訳は単にテキストの操作ではなく、著者や翻訳企画者の意図が絡み合う人間の行為なのだ」という、最も基本的なイメージだけはしっかり伝わったようでした。これはけっして深遠な思想などではなく、ごく当たり前の知識にすぎませんが、一つの足がかりになります。いったんそこに気づいた経験を持っていれば、たとえ翻訳家にならなくても、これから翻訳を読むときの読み方が違ってくるはずですし、もっと重要なことに、将来、翻訳を発注する立場になって(出版社に就職しなくても、普通の企業でもそういう機会はあります)思ったような仕上がりの納品を得られなかったときに、何が問題かを理解して対応する力になるでしょう。

前回の内容とも関係しますが、私たちにとって大切なのは、翻訳者と翻訳発注者が話し合える共通の基盤を作ることです。翻訳を発注するのは必ずしも専門家ではないので、翻訳とはどういうものかという基本的な知識の一般化、常識化は、とても重要なのです。そこでまず最初に訴えていくべきことは、ややこしい翻訳理論ではなく[注2]、翻訳は、機械的な言葉の置き換えのような単純な作業ではないということ、意図や目的と無縁ではありえないということ、そういうごく基本的な話でしょう。しかし、その基本的なことを肝に銘じるためには、過去のいろいろな考え方に接するとともに、具体的な事例(実践)を通して、コミュニケーションとは何かという本質的な考察を深めることが有用なのかもしれません。大学に半年なり1年なりのコースがあれば、そうした学習を支えられます。

昔ではとても考えられなかったこのような授業が大学で行われ、学生が素養として翻訳についての基礎知識を身に付けていくというのは、翻訳の社会常識化の一歩になると、心強く感じた年末でした。各地の大学でも、翻訳者の養成講座ばかりでなく、このような授業が広く実施されていくことを期待したいものです。

2011年1月17日号
(第4巻182号)